大型連休が終わったと思ったら夏がやってきた。今日「立夏」。(哲




2011ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0652011

 なにひとつなさで寝る夜の蛙かな

                           上村占魚

鳥諷詠というのはどこかで自己肯定に通じると強く感じることがある。自然は普遍だ。普遍のものを求めたければ、「小さな我」の世界を大きく包み込む造化に眼を遣りなさいという論法はどうも嘘臭い。小さな我を捨てるということが、類型的である我を肯定する言い訳になっていると感じるせいかもしれない。ちっぽけな我とは一体何者なのかというところをまず攻めるべきではないか。なにひとつなさないで寝てしまう我に向けられる自己の眼は、いたらない小さな自分を告白している。それは類型的自己からの覚醒といってもいい。『鮎』(1946)所収。(今井 聖)


May 0552011

 厖大なる王氏の昼寝端午の日

                           西東三鬼

午の節句は邪気を払うため菖蒲などを軒に差す、それが菖蒲と尚武の繋がりもあって男子の節句とされたと広辞苑にはある。戦後は「こどもの日」とされたようだが、私の子供時代でも3月3日のお雛様は女の子の日、鯉幟を立て、武者人形を飾る5月5日は、男の子中心の日といった気分が残っていた。男の子の祭りは祝日なのになぜ女の子の祭りは休みにならないのだろう。男の子の方が大事なんだと兄を羨ましく思ったこともあった。そんなケチな考えなどどこ吹く風と、でっぷりと太ったワン氏がいびきかいて昼寝している。戦前、戦後三鬼は神戸に住んでいたが、ロシア人、エジプト人、中国人に「センセイ」呼ばれ心に垣根を設けることなく付き合っていた。そんなコスモポリタン三鬼は鯉幟も武者人形より大きな腹をゆすって寝ている王氏に勇猛さを感じているのだろう。季重なりなど何するものぞ、意識せずに俳句の枠からはみだしてゆく三鬼の柄の大きさを王氏のいびきとともに感じさせる一句。『西東三鬼集』(1984)所収。(三宅やよい)


May 0452011

 若葉して手のひらほどの山の寺

                           夏目漱石

わやかな若葉の頃の山路を歩いているのだろうか。見渡すかぎり若葉に包まれた山腹に、おそらく小さな寺が見え隠れしているのだろう。遠方であるがゆえに、寺が「手のひらほどに」小さく見えるというわけではあるまい。寺そのものが小さいのだ。あふれる若葉に押しつぶされそうになりながらも、そこに小さな存在を主張している、忘れられたような山寺。そうした眺めを前に足を休め、山路をやってきた人はホッとして呼吸を整えているのかもしれない。小さな山寺のありようよりも、それを眺めている人のありようのほうを、むしろ映し出してくれるような句である。そのあたりに漱石の心憎い手腕が感じられる。単に小さいというのではなく、「手のひらほどの」という形容によって、小さくて、どこかしら可愛らしい風情の山寺が見えてくる。周囲には、寺を手のひらに包むようにして萌えあがる若葉。「菫ほどの小さき人に生れたし」「橋杭に小さき渦や春の川」――漱石は俳句で小さいものに惹かれていたようで、何句も詠んでいる。文庫版解説のなかで坪内稔典はこう書いている。「俳句は本来的に簡便で小である。その簡便で小さなものの価値、それの楽しみなどを、漱石の俳句は実に多彩に示している」。岩波文庫『漱石俳句集』(1967)所収。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます