五月来ぬ。子供の頃には農繁期休暇があって嫌な月だった。(哲




2011ソスN5ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0152011

 平凡といふあたたかき一日かな

                           東野佐惠子

ちろん平凡な毎日が、ただのんきで、何の気苦労もないものだなんてことはあるはずがありません。そんな人も、まれにいないことはないのでしょうが、たいていの人にとっての平凡な一日というのは、たくさんの辛いことや、みじめな思いに満たされています。それでもなんとかその日を踏みとどまって、いつもの家に帰り着き、一瞬のホッとした時間を持てるだけなのです。でも、その辛い毎日が失われた時には、ああ、あの頃はよかったなと思いだすのだから、不思議なものです。子どもがまだ小さくて、忙しく面倒を見ていた時には、幸せだなんて思う暇もなかったのに、年をとってそのころを思い出すと、ずいぶんあたたかな毎日として受け止められてきます。ということは、うじうじと思い悩んでいるこの時だって、のちに思い出せば平凡というあたたかな布に、柔らかく包みこまれていることになるのでしょうか。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2011年4月24日付)所載。(松下育男)


April 3042011

 この国の未知には触れず春惜む

                           竹下陶子

知という言葉はその時の心持ち如何で、希望にあふれているようにも不安で一杯のようにも感じられる。今、この国の未知、と読むとどうしても後者の気分が勝ちそうだが、この句が詠まれたのは、昭和五十八年。日本海中部地震があった年だが、地震が起きたのは五月二十六日なので、春惜む、より後のこと。まあいつの世でも、安心立命の境地にはなかなか至ることができない。ただ、国の先行きを憂うというより、未知という言葉に可能性を残しながら、さらにそれにはあえて触れることなく、今は春を惜しんでいる作者。このいい季節が、来年もまた巡ってくるようにと、勢いを増す緑の中で願っているのだろう。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)


April 2942011

 やさしさは宙下りかゝる揚羽蝶

                           山口誓子

さしさというものは高みから下降にさしかかったときの揚羽蝶のようなものだという直喩。下降のときの羽の感じや姿態や速度、それらが「やさしさ」そのものだと言っている。同じ作者に「やさしさは殻透くばかり蝸牛」がある。誓子考案の型である。どっちがいいかな。甲乙つけがたい。二句とも小さな生き物に対する愛情に満ちている。それでいて季節の本意を狙った「らしさ」はどこにもない。類型感はまったく無いのだ。構成の誓子と言われる。即物非情とも言われる誓子にはこんな情の句もある。『遠星』(1945)所収。(今井 聖)




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