プロ野球開幕。今季は飛ばないボールを使うそうだが第一号は誰?(哲




2011ソスN4ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1242011

 蝌蚪に脚生えて楽しくなくなりし

                           中山幸枝

の幼生である蝌蚪は、その姿から一般に「おたまじゃくし」と愛称され、昔から春の小川や池から家に連れてこられてきた。童謡の「おたまじゃくしは蛙の子」に続く歌詞の「やがて手が出る足が出る」とは反対に、まず後ろ脚が出てから前脚が出て、同時進行で尻尾が消えてなくなる。考えてみれば、たいへん大掛かりな変身である。その間、不要になる尻尾を栄養源として吸収し、一切の食料を口にせず、さらに手足が揃い始めれば陸地がなければ生きていけないという。生まれ親しんだ水中にいて、だんだん泳げなくなっていくとは、どれほど心細いことだろうと気を揉むが、少年少女の視線は掲句の通り少しばかり厳しい。愛嬌のある姿からの変化を「楽しくない」と思うのは、いかにも子どもらしく、おたまじゃくしはおたまじゃくしのまま大きくなってほしいのである。小学校低学年のときに牛蛙のおたまじゃくしを見たときの驚愕を覚えている。気持ち悪いなんてちっとも思わず、ただただ「すごい!」と興奮した。脚が生えずにひたすら大きくなるおたまじゃくしもいると、迷わず信じ込んだのだ。〈豆の花幼なじみのままおとな〉〈強力の荷に付いて来る天道虫〉『龍の玉』(2011)所収。(土肥あき子)


April 1142011

 霾天や喪の列長き安部医院

                           福田甲子雄

く俳句に親しんでいる人ならともかく、「霾」という漢字を読める人は少ないだろう。「ばい」と読み(訓読みでは「つちふる」)、句では気象用語でいう「黄砂」のことだ。一般的には黄砂に限らず、広く火山灰なども含めて言うようである。小さな町の名士の葬儀だろう。人望のあったお医者さんらしく、医院兼自宅で行われている葬儀には長い喪の列がつづいている。みんな、一度は故人の診察を受けたことのある人々である。空は折りからの黄砂のせいでどんよりと黄色っぽくなっており、あたり全体にも透き通った感じはない。どことなく黄ばんだ古い写真を思わせる光景である。このときの黄砂は偶然の現象だが、このどんよりした空間から感じられるのは、安部医院の歴史の古さであり、ひいてはこの医院にまつわるときどきの人々が織りなしてきた哀楽のあれこれだ。「霾」という季語を配したことによって、句は時間と空間の絶妙な広がりを持つことになった。作者の手柄は、ここに尽きる。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


April 1042011

 春の町帯のごとくに坂を垂れ

                           富安風生

ちろん、誰かに解説をしてもらってやっと言わんとしていることが理解できる句も、悪くはありません。でも、やっぱり一度読んだだけで理屈抜きにいいなと感じる句が好きです。ただ感じたままを無造作に放り投げてくれるような句を、ことに今は読みたいと思います。この原稿を書く机が、さきほども幾度かの強い余震で揺れていたせいもあるのかもしれません。まだまだ福島原発の放射能問題もはっきりとしない毎日に、どしんと落ちついて、しっかりと普通の春をよみあげた句に、もたれかかりたくもなります。ところで、「帯のごとく」と言って、さらに「垂れ」と結ぶのは、ちょっと工夫がないかなと思わないでもありませんが、でも、やはりこれでよいのです。無理に凝った表現をして利口ぶる必要なんか、たぶんどこにもないのです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)




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