多くの都民にとっては「原発」は遠いところのお話なのだろう。(哲




2011ソスN4ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1142011

 霾天や喪の列長き安部医院

                           福田甲子雄

く俳句に親しんでいる人ならともかく、「霾」という漢字を読める人は少ないだろう。「ばい」と読み(訓読みでは「つちふる」)、句では気象用語でいう「黄砂」のことだ。一般的には黄砂に限らず、広く火山灰なども含めて言うようである。小さな町の名士の葬儀だろう。人望のあったお医者さんらしく、医院兼自宅で行われている葬儀には長い喪の列がつづいている。みんな、一度は故人の診察を受けたことのある人々である。空は折りからの黄砂のせいでどんよりと黄色っぽくなっており、あたり全体にも透き通った感じはない。どことなく黄ばんだ古い写真を思わせる光景である。このときの黄砂は偶然の現象だが、このどんよりした空間から感じられるのは、安部医院の歴史の古さであり、ひいてはこの医院にまつわるときどきの人々が織りなしてきた哀楽のあれこれだ。「霾」という季語を配したことによって、句は時間と空間の絶妙な広がりを持つことになった。作者の手柄は、ここに尽きる。『白根山麓』(1982)所収。(清水哲男)


April 1042011

 春の町帯のごとくに坂を垂れ

                           富安風生

ちろん、誰かに解説をしてもらってやっと言わんとしていることが理解できる句も、悪くはありません。でも、やっぱり一度読んだだけで理屈抜きにいいなと感じる句が好きです。ただ感じたままを無造作に放り投げてくれるような句を、ことに今は読みたいと思います。この原稿を書く机が、さきほども幾度かの強い余震で揺れていたせいもあるのかもしれません。まだまだ福島原発の放射能問題もはっきりとしない毎日に、どしんと落ちついて、しっかりと普通の春をよみあげた句に、もたれかかりたくもなります。ところで、「帯のごとく」と言って、さらに「垂れ」と結ぶのは、ちょっと工夫がないかなと思わないでもありませんが、でも、やはりこれでよいのです。無理に凝った表現をして利口ぶる必要なんか、たぶんどこにもないのです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


April 0942011

 白樺に吊すぶらんこ濡れやすく

                           田丸千種

供達が風の中思いきりぶらんこを漕ぐ、という図はいかにも春。ぶらんこは、中国の行事が元になって春に分類されているというが、そこには春風が心地よく吹いている。しかしこの句のぶらんこは、静かに白樺林の中にある。木で作られ少し傾いたぶらんこ、夏の間だけ誰かを楽しませるために、そこで一年の大半をぼんやりぶらさがって過ごしている、そんな避暑地の別荘の風景のようにも思える。濡れやすく、という少し主観の入った言葉によってぶらんこが、なんとなく親しく優しい存在になってくる。俳句同人誌「YUKI」(2011年春号)所載。(今井肖子)




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