手遅れにならないうちに子供たちだけでも集団避難させては?(哲




2011ソスN4ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0842011

 木の芽時食べて心配ばかりして

                           室田洋子

の芽時というのは人生の時間つまりは青春性の象徴。食べて心配ばかりしているのは人間の象徴と解するとわかり易い句になる。食べた、心配した、死んだ。と墓碑銘に刻んであったとしたら、その死者は自分だと大多数の人は思うことだろう。そういえば杞憂なんて言葉もあった。『まひるの食卓』(2009)所収。(今井 聖)


April 0742011

 蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫

                           三橋鷹女

れまで短歌に親しんでいた鷹女の処女作。戯れに摘み取った手の中の菫がやがてはしおれてしまうことに哀れさを感じたのか、ひらひらと舞う蝶のように飛んでおくれ、と願う気持ちが初々しい。「おもふ」と、自分の気持ちを直截的に盛り込む強さが最期まで自分の感情を大切にした作者らしい。鷹女は昭和四十七年四月七日に亡くなった。その日は満開の桜のころであったが「花冷えなどというにはあまりに底冷えのする寒さであった」と中村苑子が書いている。鷹女最期の句は「寒満月こぶしをひらく赤ん坊」だった。消えてゆく命が、月の光に誘われて握りしめたこぶしを徐々にひらく赤ん坊の生命力に呼応したのだろうか。摘み取った掌の菫から、ひらかれゆく赤子のこぶしまで、四十五年の歳月を俳句に打ち込んだ鷹女だった。(三宅やよい)


April 0642011

 電柱をめぐりかくれぬシャボン玉

                           畑 耕一

ャボン玉は、やはり「石鹸玉」とは書かずに「シャボン玉」か「しゃぼん玉」と書いて、ふんわりと春風にかるーく飛ばしてみたいものである。「シャボン玉」と表記すると、あのキラキラ感が伝わってくるし、「しゃぼん玉」と表記すると、ふんわりふわふわしたやわらかさが強調される。「石鹸玉」と表記すると、ゴワゴワした固い感じがしてなかなか割れそうにない。表記によって、たった一つの日本語の微妙な奥深さが感じられてくる。寒さの冬からようやく解放されて、飛ぶシャボン玉の存在は一気に春を広げてくれる。吹き飛ばされたシャボン玉が、電柱にまとわりつくように見え隠れしながら、空へのぼっていく様子が見えるようだ。「シャボン」はポルトガル語。現在は通常「シャボン」と呼ばれるよりは「セッケン」と呼ばれることが多いのに反して、「シャボン玉」という呼び方がしっかり残っているのはおもしろい。耕一は俳句をよくして、句集に『露坐』『蜘蛛うごく』があり、春の句に「鶯や額ヒにのこる船の酔」がある。成瀬桜桃子の「しやぼん玉独りが好きな子なりけり」も忘れがたい。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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