元気は「もらったりあげたりする」ものではない。「出す」ものだ。(哲




2011ソスN3ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2332011

 うらなりの乳房も躍る春の泥

                           榎本バソン了壱

もとの辞書によると、「うらなり」は「末生り/末成り」と書いて、「瓜などの蔓の末に実がなること。また、その実。小振りで味も落ちる」とある。「うらなり」は人で言えば顔色がすぐれず元気のない人、という意味合いもあるが、この句では「乳房」を形容していると思われる。「小振りで味も落ちる乳房」という解釈こそ、バソン了壱好みの解釈と言えそうである。春の泥は、雪が溶ける春先のぬかるみだから、いよいよ春を迎えて心がはずみ、気持ちがわくわくと躍動する時季である。豊かな乳房が躍るのは当然過ぎるけれど、「うらなりの乳房」だって躍動せずにはいられないうれしい時季であり、そこに着目したところに春到来の歓びが大きく伝わってくる。じつは春泥をよけながら、やむを得ず跳びはねているのかもしれない。近年は道路の舗装が進み、よほどの田舎道でないかぎりぬかるみに遭遇する機会は少なくなった。ところで、春泥に躍っているのは何も乳房(女性)だけではない。男性だって躍る。――「春泥に子等のちんぽこならびけり」(川端茅舎)、ほほえましい春泥の図である。バソン了壱には他に「地平線幾度書き直し冬の旅」「この狭き隙間に溢るる臓器学」などがある。『少女器』(2011)所収。(八木忠栄)


March 2232011

 ものの種にぎればいのちひしめける

                           日野草城

眉刷毛万年青の芽
のの種とは、穀物や草花などのあらゆる種子をさす。種は、芽吹きを約束する希望のかたまりである。そっと手に乗せたのち、握りこぶしに力を込めれば、ひと粒ひと粒の種がちくちくと手のひらを刺激する。その心地よい痛みは、命の確かな存在であり、一面の実りを想像させる未来である。恐ろしいニュースが続けざまに流れるなか、パソコンの横に置いてあった眉刷毛万年青(まゆはけおもと)の種がいつの間にか発芽していた。土の上に置いた種から、臍の緒のような管が地面をまさぐるように伸び、接地面であらためて根をおろす。球根植物の神秘的な芽吹きは、不屈の精神と生への渇望を目の当たりにしているようで、健気にして頼もしく、そしてひたすら愛おしい。それは被災された多くの方々への思いにも重なり、愛すべき日常が一日も早く戻ることを、ただ祈り願うばかりである。『日野草城句集』室生幸太郎編(2001)所収。(土肥あき子)


March 2132011

 雨寒し春分の日を暮れてまで

                           篠田悌二郎

るで今日という日に詠まれたような句だ。実際、昨日の天気予報によれば、今日は全国的に雨模様である。句では朝から春雨と呼ぶのがはばかられるような冷たい雨が降り、暮れてもなお降り続いている。晴れていれば、少しくらい寒くても「春分の日」と思うだけで心和むところだが、雨降りだと逆に「春分の日」であることが恨めしくさえ思えてくる。寒さが、ひとしお身にしみる。ましてや今年は地震津波による大災害のあとだけに、いっそう暗く寂しい思いに沈み込む人は多いだろう。祝日法では「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としているが、今年はすべての自然を素直に「たたえる」気にもなれない。週末あたりには桜が咲きはじめる地方もあるようだが、花見どころではない人たちのことを思うと、うかれ気分にはなれそうもない。いま全国でこの句を目にしているみなさんも、おそらく同じ気持ちでおられるだろう。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)




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