父の後始末のために実家行き。散骨までまだいろいろとありそう。(哲




2011ソスN3ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1032011

 柵ごしの地面しづもる弥生かな

                           山本紫黄

便番号簿を見ていて季題にある植物と同じ地名を見つけたのをきっかけに季題地名一覧として編集したのが、高橋龍の「郵便番号簿季題地名一覧」である。この句は郵便番号113−0032 東京都文京区弥生の例句として出されている。文京区本郷は、弥生式土器が発見された場所であり、もとになる村落という意味をこめて「本郷」と呼ばれたと聞いたことがある。掲句では、ものみな盛んに茂り始める弥生という季語と、柵越しに見える地面が抱えこむ豊かな時間とが響き合っているように思える。むかしを知る手掛かりになる大事な地名も行政の合理化のため味気ないものに統合されてしまった。東京都文京区弥生も消えかかったが、ここに住む人たちが地名を残すべく行政に抵抗して残ったという経緯があったと本書に記されている。わたしが生まれた場所もどこにでもある「中央区」になってしまったが、考えてみればもったいなかった。「郵便番号簿季題地名一覧」九有似山洞・編(2009)所収。(三宅やよい)


March 0932011

 足のうら足をはなれてはるのくれ

                           武田 肇

は身も心も浮き立つ季節である。日も永くなってきて、やわらかい日ざしのなかを、どこまでも歩いて行きたい心地がする。軽快に歩いているうちに、うっかりしていつのまにか、足のうらが足を離れてしまったような錯覚に陥ってしまったというのであろう。うん、わかります。夢うつつの境地での散策なのかもしれない。足跡には足を離れてしまった足のうらが、名残りのようにそっくりそのまま、ずっと春の宵の口のほうまで、ひたひたつづいているのだ、きっと。足をなくした足のうら、足のうらをなくした足――春なればこそのややこしい椿事? 春の暮ならではの奇妙な時空が、そこに刻みこまれているように思われる。「…はなれて/はるのくれ」の「ha」音の連続が心地よい。「春の暮」と「春の夕」とでは暗さの重みのニュアンスが微妙にちがう。肇は句集にこう記している。「俳句も進化すべきであり、必然的に進化するであらう。もつといへば季題に内在する普遍的な力がさうさせる筈である」。他の句に「あしのうらはどこからきたかあまのがは」「春風や引戸に掛ける手のかたち」などがある。『ダス・ゲハイムニス』(2011)所収。(八木忠栄)


March 0832011

 春なれや水の厚みの中に魚

                           岩田由美

なれとは、春になったことの喜びを含む心地をいう。「春なれ」を使ったものに芭蕉の〈春なれや名もなき山の薄霞〉があるが、ここにも平凡な山にさえ春を愛でる心が動いてしまうという芭蕉の喜びを感じる。日に日に春らしくなっていくのは、花の蕾も草の芽も、なにもかも新品で揃えられていくように心楽しいものだ。川や池の水さえも、新しく入れ替えられたように、春の日差しのなかできらきらと輝いている。掲句は「水の厚み」といったところに、手触りを思わせる実感が生まれた。そしてそこに魚が泳ぐことに、命の神秘と美しさが込められた。春の喜びを詠む句は数あれど、掲句の中七から下五にかけてのリズムと風情は、一度口にしたら二度と忘れられない心地良さとなって、胸のなかを泳ぎまわる。『花束』(2010)所収。(土肥あき子)




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