昨日発売のデジカメFinePixX100が即日完売。13万円もするのに。(哲




2011ソスN3ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0632011

 春服にポケットのなき不安かな

                           鹿野佳子

ケットという、かわいらしい響きのためでしょうか。あるいは、まど・みちおの「ふしぎなポケット」を連想するからでしょうか。ポケットというものは、どこか、よいことにつながる通路のような心持がします。春になり、分厚いコートを脱ぎ、さらにジャケットを脱いで身軽になったあとで、でも、どこか物足りない気分がするのはどうしてでしょうか。ああそうか、冬服にはあっちにもこっちにもあったポケットの数が、急に減ってしまったのでした。このポケットには財布を、こちらには定期券とハンカチをと、しまう場所を決めていたもの達も、テーブルの上に置かれて、困り果てています。どこにもしまえなくなった小物たちが、徐々に明るくなってくる春の日射しの下で、持ち主と一緒に、途方に暮れているのです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


March 0532011

 鶯もちいろを抓みていただきぬ

                           八田木枯

餅、うぐいす餅、うぐいすもち、鶯もち。それぞれ印象がずいぶん違う。餅、より、もち、の方がしっとりとした質感があり、うぐひす、より、鶯、の方が即座にその色と形が見える。色、は、いろ、とした方が、もちのなめらかさを損なわず、抓む、はその字にある「爪」によっていかにも、指でそっとつまむ、という感じがする。そして、食べる、ではなく、いただく。いただきぬ、とやわらかく終わることによって、ほんのりとした甘さが余韻となって残る。漢字か平仮名か、どの言葉を使うか、その選択によって目から受ける印象のみならず一句の余韻も変わる、ということをあらためて感じた。『俳壇』(2011年3月号)所載。(今井肖子)


March 0432011

 うしろより見る春水の去りゆくを

                           山口誓子

人法は喩えるものと喩えられる人の様子があまり解かりやす過ぎると俗に落ちる。春の水に前も後ろもなく、形もないから、この句の強引さが生き生きと擬人法を支える。俗に落ちないのだ。うしろより、で作者の歩く速さが見える。「を」で余韻が強調される。「冬樹伐る倒れむとしてなほ立つを」と同じ誓子自身のリズム。こういうのを春水の本意というのだろうか。違うと思う。これは季節感を作者の方へ近づけた「詩」そのもの。『晩刻』(1947)所収。(今井 聖)




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