急に気温が上昇。うれしいけれど、最近の自然の営みは不気味だ。(哲




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February 2522011

 紅梅に干しておくなり洗ひ猫

                           小林一茶

うやって干したんだろう。枝に縛ったりしたとは思えない。木の上に上らせて置いたということの比喩だとしたら、猫が意味もなく木の上に長く留まるとは考えにくい。だいいち昔も猫を洗ったということが僕には新鮮。僕の子供の頃は人間様でも毎日は銭湯に行かなかったし、髪なんか週一くらいしか洗わなかった。一茶の時代ならもっと間隔が空いていただろうに、そんな時代に猫を洗うとは。野壺にでも落ちたか。今の俳句ならヨミの許容範囲が広がっているので、「紅梅に」で軽い切れを入れて読む読み方もあるかもしれぬ。猫は別の場所に干してあるという鑑賞だ。それから、馬や牛を洗うのが夏の季題だから、猫を洗うのもやっぱり夏がふさわしくて、紅梅とは季節感がずれる、なんて言いそうだな、現代は。僕は、猫は絶対に紅梅の木の上にいると思う。この句の魅力はこのユーモアが現代にも通じること。河豚を食べたがなんともなかったとか、落花が枝に帰るかと思ったら蝶だったとか、古句の中のユーモアはあまり面白くないことが多いが、この句、今でも十分面白い。『一茶秀句』(1964)所収。(今井 聖)


February 2422011

 梅林や学生寧ろ海を見る

                           榎本冬一郎

年この時期になると青梅の吉野郷に梅を見に行く。山また山に梅が咲き乱れる様子は見事ではあるが、兵庫の綾部梅林などは頂上近くから瀬戸内海が一望できるらしい。海を臨む日当たりのよい斜面にある梅の木々を思うだけで気持ちがいい。そんな梅林で観梅する人々と違う方向に視線を振り向けている学生の様子が作者の注意を引いたのだろう。今は若者から老人まで同じようにカジュアルな服装をしているが、掲載句の作られた昭和30年代といえば、普段でも制服、制帽の着用が普通だった時代。だからすぐ学生とわかったのだろう。目の前の梅ではなくかなたの水平線をじっと見詰めている彼は、未知の世界へ心を駆り立てられているのだろう。何時の世も青年たちは遠い眼で海を見詰めてきた。現代の若者も梅林より寧ろ海に心引かれるだろうか。「現代俳句全集」四巻(1958年)所載。(三宅やよい)


February 2322011

 風花やわれに寄り添ふ母の墓

                           加宮貴一

雪、淡雪、沫雪、雪浪、雪しまき、雪まろげ、雪つぶて、銀花、六花(むつのはな)、そして風花……雪の呼び方や種類には情緒たっぷりのものがある。雪と闘っている人にとっては「情緒もクソもあるものか!」と言われそうだけれど。豪雪とか雪崩、雪害などという言葉は人に好かれないが、「風花」はロマンチックでさえある。晴れあがった冬空のもと、それほど寒くもない日に、こまやかな雪片があるかなきかに風に舞う。雪景色のなかであればいっそう繊細な味わいが広がる。掲句はもちろん、母の墓が「われ」に寄り添ってきたわけではない。母の墓にお詣りして、しばし寄り添っている静かな光景であろう。そこへ舞うともなく風花がちらほら舞っている。作者の心は墓と風花の両方に寄り添っているのだろう。墓前でそんな束の間の幸福感に浸っている。「寄り添ふ」のはやはり「母の墓」でなくてはなるまい。雪国で雪が降りつづけたあと、からりと青空がのぞく日がまれにあって、そんな時ちらつく風花は冬の格別な恵みのように感じられる。作家・貴一には「戸隠に日あり千曲の秋時雨」他たくさんの俳句があり、本島高弓との共著句集『吾子と吾夢』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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