焦っても無駄なのに焦る。「焦慮は罪」と言ったカントが憎い。(哲




2011ソスN2ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2422011

 梅林や学生寧ろ海を見る

                           榎本冬一郎

年この時期になると青梅の吉野郷に梅を見に行く。山また山に梅が咲き乱れる様子は見事ではあるが、兵庫の綾部梅林などは頂上近くから瀬戸内海が一望できるらしい。海を臨む日当たりのよい斜面にある梅の木々を思うだけで気持ちがいい。そんな梅林で観梅する人々と違う方向に視線を振り向けている学生の様子が作者の注意を引いたのだろう。今は若者から老人まで同じようにカジュアルな服装をしているが、掲載句の作られた昭和30年代といえば、普段でも制服、制帽の着用が普通だった時代。だからすぐ学生とわかったのだろう。目の前の梅ではなくかなたの水平線をじっと見詰めている彼は、未知の世界へ心を駆り立てられているのだろう。何時の世も青年たちは遠い眼で海を見詰めてきた。現代の若者も梅林より寧ろ海に心引かれるだろうか。「現代俳句全集」四巻(1958年)所載。(三宅やよい)


February 2322011

 風花やわれに寄り添ふ母の墓

                           加宮貴一

雪、淡雪、沫雪、雪浪、雪しまき、雪まろげ、雪つぶて、銀花、六花(むつのはな)、そして風花……雪の呼び方や種類には情緒たっぷりのものがある。雪と闘っている人にとっては「情緒もクソもあるものか!」と言われそうだけれど。豪雪とか雪崩、雪害などという言葉は人に好かれないが、「風花」はロマンチックでさえある。晴れあがった冬空のもと、それほど寒くもない日に、こまやかな雪片があるかなきかに風に舞う。雪景色のなかであればいっそう繊細な味わいが広がる。掲句はもちろん、母の墓が「われ」に寄り添ってきたわけではない。母の墓にお詣りして、しばし寄り添っている静かな光景であろう。そこへ舞うともなく風花がちらほら舞っている。作者の心は墓と風花の両方に寄り添っているのだろう。墓前でそんな束の間の幸福感に浸っている。「寄り添ふ」のはやはり「母の墓」でなくてはなるまい。雪国で雪が降りつづけたあと、からりと青空がのぞく日がまれにあって、そんな時ちらつく風花は冬の格別な恵みのように感じられる。作家・貴一には「戸隠に日あり千曲の秋時雨」他たくさんの俳句があり、本島高弓との共著句集『吾子と吾夢』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 2222011

 猫の子のおもちやにされてふにやあと鳴く

                           行方克巳

日猫の日。つながる2をニャンと読むものなので、日本限定ではあるものの、堂々と猫の句の紹介をさせていただく(笑)。あらゆる動物の子どもは文句なく可愛いものだが、ことに子猫となると自然と相好が崩れてしまう。小さいものへ無条件に感じる「かわいさ」こそ、赤ん坊の生きる力であるといわれるが、たしかに言葉ではあらわすことができない力が作用しているように思われる。掲句では「にゃあ」ではなく、「ふにゃあ」というところに子猫のやわらかな身体も重なり、極めつけの可愛らしさがあますところなく発揮されている。とはいえ、句集に隣合う〈子猫すでに愛憎わかつ爪を立て〉で、罪ない声を出しながら、一方で好き嫌いをはっきりと見定めている子猫の姿も描かれる。子猫はおもちゃにされながら、飼い主として誰を選ぼうかと虎視眈々と狙っている。〈恋衣とは春燈にぬぎしもの〉〈春の水いまひとまたぎすれば旅〉『地球ひとつぶ』(2011)所収。(土肥あき子)




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