父の葬儀。好きだったウイーン少年合唱団の歌声で見送ります。(哲




2011ソスN2ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2022011

 夕風 絶交 運河・ガレージ 十九の春

                           高柳重信

詞だけを置いてゆくこの句から、どこか北園克衛の詩を連想しました。詩ならこの後で、どんな展開も可能だし、名詞だけが選ばれた理由を含めて書き継いでゆくこともできます。しかし、句ではそうはいきません。助詞や副詞や形容詞や動詞が、句にとってはどうして必要なのかを、逆に考えさせてもくれます。途中に開けられた空白と、中黒の違いはあるのでしょうか。選ばれた言葉から連想されるのは、バイクに乗って運河沿いを走っていた若者が、友と別れ、肩を落としてガレージに帰ってきたと、そんなところでしょうか。しかし、意味をつなげて解釈してしまうと、句の魅力に迫ることができません。たぶんそうではなく、夕風は夕風そのものであり、絶交は絶交という言葉でしかないのです。全体に逃げ場のない悲しみを感じますが、あるいはそうではなく、ただ単にしりとりを、一人でしているだけなのかもしれません。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


February 1922011

 幻のまぶたにかへる春の闇

                           阿部みどり女

の闇は春の夜の暗さをいうが、残る寒さの中にしんとある闇なのか、仄かに花の香りのする濡れたような闇なのか。早春から晩春、夜の感触は時間を追うごとに、またその時々の心情によって変わる。闇をじっと見つめていると、心の中の面影がふと像を結ぶ。こちらに向かって来るような遠ざかっていくようなその面影を閉じ込めるように、そっとまぶたをとじる。まなうらに広がる闇は、ありし日の姿と共に明るくさえ感じられるだろう。この句は、「二月十二日夫逝く、二句」と前書きがあるうちの一句。その直前に「一月十一日長男逝く」とあり〈遅々と歩す雪解の道の我ありぬ〉〈コート黒く足袋眞白に春浅き〉の二句。相次ぐ悲しみにその境涯を思うが、掲出句の、春の闇、に最も心情がにじむ。今年の二月も半ば過ぎて身の回りに相次ぐ訃報、春の闇に合掌。『笹鳴』(1945)所収。(今井肖子)


February 1822011

 石段にのる事二尺春の潮

                           松瀬青々

の潮が街なかの川に満ちてきて、川に下りる石段を浸して昇ってきた。石段は昔から濯ぎなどのためにあったものだろう。二尺だから約60センチ、満潮の刻と思われる。川と街と海とのつながり。そこで暮す人々の喧騒。日本のみならず世界中の海沿いの都市ではこんな自然の動きが何千年も繰返されてきた。「のる事」というふうな言い方は今の俳句にはない。だから新鮮。『蝸牛俳句文庫・松瀬青々』(1994)所収。(今井 聖)




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