昨日、父が永眠。百歳までと言っていたが、一年半届かなかった。




2011ソスN2ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1522011

 この枯れに胸の火放ちなば燃えむ

                           稲垣きくの

めいてきているとはいえ、唐突な雪があったり、一年のなかでもっとも寒さに敏感になる頃である。毎年バレンタインデー前後にことにそう思うのは、街やマスコミが盛り上げる赤やピンクのハートが飛び交うロマンチックの度合いと、わが身の温度差によるものだろうか。あまたある情熱的な句のなかでも、まっさきに浮かぶ一句が掲句である。ストレートにではないが、恋と示唆するにじゅうぶんな情熱が充溢し、それはどちらかというとおそろしいほどの様相である。しかし、掲句の前提は、その炎となる火を胸に秘めているというところに、作者の懊悩を共に感じ、またそれぞれが隠し持っている種火の存在に意識が届く。フルスロットルで詠う恋の句には健やかなまぶしさを覚えるが、ときには封じていた胸の奥の小部屋を覗いてみたくなるような作品に存分に酔いたくなる。『冬濤』(1966)所収。(土肥あき子)


February 1422011

 病室の母に小さき雛飾る

                           林まあこ

がつけば、二月も半ば。雛を飾っているお宅も多いだろう。作者の母上は入院中なので、この年は病室に小さなお雛さまを飾ってあげた。娘としての優しい心根はよく出ているが、それだけといえばそれだけの句である。しかし、私たちの日常生活では、それだけのことが、当事者にはそれだけの何倍もの感慨を呼び覚ましてくれることも多いのだ。豆雛だろうか。病室のまことに小さなテーブルの片隅にちょこんと飾られたお雛さまは、他のどんな豪華な雛飾りよりも、母上を喜ばせたことだろう。私事に及ぶが、この一年間ほどは、両親ともに入院している病院に何度も見舞いに通ってきた。通っているうちに気がついたのは、病室というところでは四季の移ろいがほとんど感じられないことだった。一年中室温は同じに保たれているし、窓は不透明なカーテンで覆われており、むろん風なども入ってはこない。外からの音もあまり聞こえない。そんな部屋に、せめてもと花を飾ろうとしたら、禁じられていた。花は生きものだから、雑菌なども一緒に持ち込むことになり、病院にしてみれば大いに迷惑なのである。そんな私の個人的な事情があるので、この句をそれだけの句として突き放す気にはなれないのだった。近々見舞いに行くときには、豆雛を持っていこうと思う。『真珠雲』(2011)所収。(清水哲男)


February 1322011

 かうしては居れぬ気もする春炬燵

                           水田信子

ンションに住み始めてからは、こたつとは縁のない生活をしてきました。私が実家でこたつに入ったのは、もうだいぶ昔のことです。昔のこたつだから、なかなかうまい具合に温度調節ができず、脛が熱くなりすぎたり、あるいはなかなか温かくならずに肩まで潜ったことなどを覚えています。それでもいったん入ったら、なかなか抜け出ることができません。だんだんだらしなくなってきて、ああこれではいけない、もっとしゃっきりとしなきゃあと、後ろめたい心を抱えながらもずるずると時を過ごしてしまう。いったん入ってしまうと、どうしてあんなに動けなくなってしまうのだろう。大げさではありますが、どこか、自分の意志の弱さを試されているような気分にもなります。それでも時折、こたつに入ってみたくなります。あの心地の良さと、ずるずるとだめになってゆく自分を、感じるために。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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