今日から急に暖かくなるわけじゃないけれど、なんとなく嬉しい。(哲




2011ソスN2ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0422011

 若布干す鳩も鴉も寄つてくる

                           名取里美

ってくる鳩や鴉は若布を狙っているのではないだろう。浜に打ち上げられる雑魚の死骸などが目的か、あるいは干す人の温情にすがって何かもらうつもりだ。この場面から先、鳩や鴉は目的を達したのか。それが気になる。人を介護したり、犬猫を可愛がったり、孫になんでも買ってやろうとしているあなた、鳩と鴉にも少しでいいから喜捨を。『家族』(2010)所収。(今井 聖)


February 0322011

 恐るべき年取豆の多きかな

                           木村たみ子

さい頃は豆の数が少ないのが不満だった。自分よりたくさん豆がもらえる兄や姉が羨ましく、年をとるたび掌に乗せる豆が増えるのが嬉しかった。いつからだろう豆の数が疎ましくなったのは。「恐るべき」というぐらいだから片手に山盛りだろうか。子供たちも大人になった今は鬼の面をかぶることも豆まきをすることもなくなった。試しに年の数だけ手に乗せると溢れそうである。「鬼は外」と大きな声で撒くに恥ずかしく、ぽりぽり齧るには多すぎて、まさに「恐るべき」豆の多さである。「死にたしと時には思へ年の豆」高橋龍の句のように自分の年齢へ辛辣な批判を加えてみるのもひとつの見方だろうが、山盛りの豆に怖気つつ、又ひとつ豆を加えられる無事を感謝したい。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)


February 0222011

 憶い出にもたれて錆びる冬の斧

                           高岡 修

かなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます