二月は罐をける小さな靴(北村太郎)。けられた罐は春の方へ。(哲




2011ソスN2ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0122011

 おさなごの息がルーペに花はこべ

                           池田澄子

こべは、はこべらとも呼ばれ、漢字では「繁縷」。こんな難しい字を背負っていたのかと驚くが、道端や庭の片隅などでよく見かける、いかにも雑草然とした地味な草である。米粒ほどの白い花は、よくよく見れば星の形をしていて確かに味わい深く可愛らしいが、あらためて振り返るような花ではない。しかし、尽きることのない子どもの好奇心の前では別だ。一度ルーペを渡せば、小さな手が探偵よろしく、家のなかから庭先まで飽きることなく覗きまわる。新しいことを知りたい気持ちが押し寄せて、ルーペが曇るのも構わず小さな花と向かい合うのだ。思えば、大人になればなるほど、目をつぶる機会は多くなる。年を重ねるごとに腹立たしいことやむなしいことばかりが目につき、自分の心を穏やかに保つために、なるべく見たり聞いたりしないようにするのが人の世の保身術であり処世術なのである。掲句に触れ、なにごとにも目を凝らしていた時代のわくわくした気持ちを思い出すことができた。息で曇ったルーペを拭えば、すぐそこまで迫っている春の姿が映っているかもしれない。「俳句α」(2011年2-3月号)所載。(土肥あき子)


January 3112011

 親類の子も大学を落ちてくれ

                           十 四

日は川柳から一句。まず、もう一度掲句に戻って、読後の感想をこころに素直に止めてから以下を読んでいただきたい。この句は北村薫『詩歌の待ち伏せ・上』(2002・文藝春秋)で知った。原句は『番傘川柳一万句集』に収録されているのだそうだ。で、北村さんはこう書き出している。「見た瞬間に、<何て嫌な句だろう>と思いました。自分の子が滑った時のことでしょう。確かに、人にそういう心がないとはいえない。けれど、剥き出しにされては堪らない、と思ったのです」。実は、私も一読そう思いました。読者諸兄姉は、どんなふうに思われたでしょうか。ところが、なのです。この句の解説に曰く。「この『くれ』は命令・願望ではない。連用止めである」。つまり、作者は「落ちてくれ」と願っているのではなくて、親類の子も「落ちてくれた」という意味なのだった。これを読んで、北村さんは「どうして見た瞬間に、感じ取れなかったのでしょう。恥ずかしいし、何より、口惜しい。とにかく、後ろを振り向いて、誰か見ていないか確認したいような気持ちでした」とつづけている。私もまた「あっ」と思い、北村さん同様に、後ろめたい気持ちになってしまった。つくづく、自分の目のいじわるさに嫌気を覚えたのである。読者の皆さんの場合は、如何だったろうか。はじめから「くれ」を連用止めと読んだ人は、そのまっすぐで汚れのない性格を誇って良いと思う。(清水哲男)


January 3012011

 溺愛のもの皆無なり冬座敷

                           佐藤朋子

かれている内容には、どこか寂しいものがあります。確かに若いころには好き嫌いもはっきりしていました。傍からみっともなく見えても、好きになったらその思いを、がむしゃらに相手にぶつけた時期もありました。それが歳を重ねるとともに、好きも嫌いも感覚が磨耗してきて、すべてがほどほどに受け止められるようになってきます。はじめはそんな内容の句だと思っていましたが、どうもそれほど悟りきってはいないようです。仔細に見て行くと、「溺愛」も「皆無」もかなり激しい言葉です。そんなことでいいのかと、自身の心に活を入れているような厳しさが感じられます。それが冬の畳の冷たさに、うまく対応しています。せっかくこの世に生きて、なにひとつ心を奪われるものもなく過ごす日々を、われながら情けないと叱りつけているようです。年齢にかかわりなく、つねになにかに生き生きと惹かれていたいと、この句に励まされもしてきました。『生と死の歳時記』(1999・法研)所載。(松下育男)




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