東京あたりでも、久しぶりに「大寒」が実感される寒さですね。(哲




2011ソスN1ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2012011

 M列六番冬着の膝を越えて座る

                           榮 猿丸

技場の座席を思うか、劇場の座席を思うかで状況はだいぶ変わってくる。天皇杯、ライスボール、全国大学ラグビー、一月は見ごたえのある試合が目白押し。そういえば冬の競技場の雰囲気はナイターと雰囲気が違うなぁ。掲句を読んで思った。座席が狭くて、「すみません、すみません」と膝を脇へよけてもらいながら自分の席に座る状況はいっしょだが、ナイターの場合はひょいひょいと軽快に越えてゆく感じ。カクテル光線に照らし出された球場のざわめきも冬の競技場のそれとは違う。冬着の膝なんてまわりくどい言い方をせずに「着ぶくれ」という季語があるじゃないか、と見る向きもあろうが、季語はときには現実世界を大雑把にくるんでしまう。着ぶくれは上半身にポイントが置かれ、脚の動きは置き去りにされる感じ。字余りを押して書かれた座席番号と冬着の膝に微妙なニュアンスが感じられる。『超新撰21』(2010)所収。(三宅やよい)


January 1912011

 思うことなし山住みの炬燵かな

                           石川啄木

の人は思考停止の状態で、炬燵に入っているのだろう。失意の果て今は何も思わず考えず? 北海道時代の啄木のある日ある時の自画像かもしれないが、啄木のことだから、まったくのフィクションとも考えられる。「山住み」ゆえにのんびりとして、暇を持て余し所在なく炬燵にもぐっている。今は何ごとにも手をつける気力もなく、ただ炬燵で時をやり過ごして、何の意欲もわいてこない。まあ寒い時季に、妙にあくせくしているよりはむしろ好ましいか。失意のどん底にあるというわけでもなさそうだ。「……渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」ではないが、啄木の歌には「思ふ」という言葉が頻繁に遣われている。「ことさらに燈火を消して/まぢまぢと思ひてゐしは/わけもなきこと」――暗がりでわけもないことに思い煩っているよりは、「百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと/あくびしてまし/思ふことなしに」、つまり余計なことに思い煩わされることなく、炬燵であくびでもしていましょうや、というわけか。啄木の俳句は数が少なく、しかもいずれも月並句のレベルを出ない。年譜からも、幾多の解説の類からも啄木句はほとんど無視されている。だから上手下手はともかく、逆に珍しさが先に立つ。啄木の思考や感情は、俳句という表現形式では盛りきれなかった。十七文字と三十一文字の差異を改めて見せつけられる。ほかに「冬一日火に親しみて暮れにけり」がある。いかにも啄木。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 1812011

 梟やわが内股のあたたかし

                           遠藤由樹子

ーロッパでは森の賢者と呼ばれ、日本では死の象徴とされてきた梟は、動物園やペットとして飼われているものでさえ、どこか胸騒ぎを覚えさせる鳥である。集中前半に収められた〈梟よ梟よと呼び寝入りけり〉の不穏な眠りを象徴した梟が印象深かったこともあり、後半に置かれた掲句にも丸まって太ももの間に手をはさんで横になる姿勢を重ねた。左右の脚の間にできるわずかな空間のやわらかなぬくもりが、安らかな心地を引き寄せる。それは自分で自分を抱きしめているような慈しみに満ち、そして少しさみしげでもある。おそらく胎児の頃から親しんできたこのかたちに、ひとりであることが強調されるような様子を見て取るからだろう。寒さに耐えかねてというより、さみしくてさみしくてどうしようもないときに、人は自らをあたためるようなこの姿勢を取ってしまうのだと思う。血の通うわが身のあたたかさに安堵と落ち着きを取り戻したのちは、元気に起き上がる朝が待っている。『濾過』(2010)所収。(土肥あき子)




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