午後から俳誌「ににん」の10周年記念会。もう10年経ったのか。(哲




2011ソスN1ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1612011

 夢に見れば死もなつかしや冬木風

                           富田木歩

木風はそのまま「ふゆきかぜ」と読みます。日本語らしい、よい言葉です。ところで、ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろうと思います。普通に考えれば親でしょうか。でも、私も亡くなった父親の夢を時折に見ることはありますが、たいていは若いころの、元気の良かった姿ばかりです。親父の死んだときの夢なんて、見たことはありません。それに、夢に見ているときというのは、つらいことは現実よりもさらにつらく感じるので、人の死の夢を見るなんて、想像するだけでも胸が苦しくなってきます。あんまりつらい夢を見ているときには、そのつらさに耐えられずに目が覚めてしまうことがあります。ああ夢でよかったと、布団の中で安堵したことがこれまで幾度もあります。でも、この句はそうではなく、もっと素直に、死んだ人たちに夢の中で会えて懐かしかったと、まっすぐに受け止めればよいのかもしれません。死も、一生という夢の中の、一部なのだから。『作句歳時記 冬』(1989・講談社)所載。(松下育男)


January 1512011

 折鶴のふつくらと松過ぎにけり

                           峯尾文世

が家では正月七日に松飾りをはずすが、所によってさまざまらしく、ひとくくりに関東と関西で異なるとも言えないようだ。ともあれ、松がとれれば松過ぎ、普段通りの生活に戻るが、年が改まったという新しい心地がしばらく残っている。今年の東京は、寒の入りからぐっと冷えこんで来てこれからが寒さも本番だなと思いながら、この句を読んで久しぶりに鶴を折ってみた。直線で形作られた折鶴に最後に息を吹きこむと背中がふくらんで、その独特の姿が完成する。テーブルにそっとのせると、午後の日差しが折鶴にうすい影を作っている。確かに寒いけれど、小正月が過ぎれば立春まで三週間を切るのだとふと思う。冬至の頃、これからは昼が長くなる一方と少しうれしくなるように、松過ぎには待春の心が芽生えるものなのだなと、折鶴の背中のやわらかな曲線を見つつあらためて感じた。上智句会句集「すはゑ(木偏に若)」(2010年8号)所載。(今井肖子)


January 1412011

 励まされゐて火鉢の両掌脂ぎる

                           櫻井博道

邨先生居という前書あり。博道(はくどう)さんは宿痾となった結核との永い闘病生活の果てに平成三年六十歳で逝去。痩身でいつもにこにこと優しい人柄であった。作風もまた人柄に同じ。師加藤楸邨はことのほかその作品と人柄を愛した。句集『海上』にはあたたかい師の跋文がある。楸邨は後年は弟子の句集に序文や跋文は書かない主義を通したので、おそらくこれが最後の跋文ではなかったかと思う。晩年楸邨居の座談会に僕も同席したが、楸邨は博道さんの足の運びにも気を遣っていた。この句も楸邨が博道さんを励ましているのである。脂ぎるという言葉は健康な人間にとっては決して清潔な語感ではないが、宿痾を抱える作者は体全体から噴き出す気持ちの高揚というほどの積極的な意味で用いている。博道さんのあの研ぎ澄まされたような痩身を思いだすとこの脂ぎるがなんとも切なく胸に迫ってくる。『海上』(1973)所収。(今井 聖)




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