世間は三連休、私は仕事始め。でも、アクセクするのは止めよう。(哲




2011ソスN1ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0812011

 子の祈り意外に長き初詣

                           小川龍雄

供の頃の初詣の記憶は定かでない。近所のお稲荷さんにちょこちょこ手を合わせていたことは覚えているが、思い出すのは狐の顔と首に巻かれた赤い布が恐かったことぐらいだ。それはきっと、初詣といっても言われるままに形だけ手を合わせ、わけも分からず頭を下げていたからだろう。お願い事をする、というのは良くも悪くも欲が生まれるということで、成長のひとつといえる。この句の「子」は成人男子、父と二人の初詣か。家族の健康と仕事の事少々、くらいを願って顔を上げた父は、目を閉じてじっと手を合わせている息子の横顔をしばし眺めている。願うというよりは祈るような真剣なその横顔に、一人前の男を感じている父。意外に、という主観的な言葉には、父親としての感慨と同時にいくばくかの照れが感じられてほほえましくもある。同人誌『YUKI』(2010年冬号)所載。(今井肖子)


January 0712011

 冬すみれおのれの影のなつかしき

                           川崎展宏

分の影を懐かしいと思うのは青春期の感慨ではない。人生も半ばが過ぎたと実感するに伴う感慨だろう。この俳人の作風は、優しさ、淡さ、思いやり、挨拶。ゆったり、ひろびろとした、豊かな世界を感じさせるもの。ひょっと口をついて出るような日常の機微。展宏さんは楸邨の弟子だが、同時に森澄雄さんの弟子。自分を追い詰める観念、苦渋の吐露、凝視、その結果の字余り、破調。そんな楸邨の特徴から離れて上記のような世界を希求した。そこで森さんの傾向と重なる。そして展宏さんの方がもっと「俳諧」への関心が強固。『夏』(1990)所収。(今井 聖)


January 0612011

 鏡餅真ッ赤な舌をかくしけり

                           鳥居真里子

や六日となり正月気分もだいぶ薄らいだ。そうとは言っても部屋を見渡せば、お飾りも鏡餅もそのまま残されている。掲句の鏡餅はパックに入った小さなのではなく、床の間に飾る本格的で立派なものが似合いだ。田舎では蒸してつきあがったアツアツの餅の塊から、まず鏡餅の上下を作った。丸餅を丸める要領で熱いうちに一気に成型しないときれいな形に仕上がらない。飾り方もいろいろあるのだろうけど、うちでは白木の三方の上に裏白を敷いてのせ、上下の餅の間に昆布を挟み込んでいた。真白なモチのどこから掲句の奇想が湧いてくるのか不思議だけど、新年を寿ぐ鏡餅の類想、類句とは無縁だろう。この場合鏡餅と舌の連想をつなぐものは垂れた昆布あたりかもしれぬが、「真ッ赤」の形容にめでたさの裏に隠れた悪意や怖さが感じられる。真赤な舌を隠したまま素知らぬふりで正月の主役を務めていた鏡餅も割られておぜんざいになる日も近い。『月の茗荷』(2008)所収。(三宅やよい)




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