松納。江戸では六日の夕方に門松を取る習わしが。今は七日かな。(哲




2011ソスN1ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0612011

 鏡餅真ッ赤な舌をかくしけり

                           鳥居真里子

や六日となり正月気分もだいぶ薄らいだ。そうとは言っても部屋を見渡せば、お飾りも鏡餅もそのまま残されている。掲句の鏡餅はパックに入った小さなのではなく、床の間に飾る本格的で立派なものが似合いだ。田舎では蒸してつきあがったアツアツの餅の塊から、まず鏡餅の上下を作った。丸餅を丸める要領で熱いうちに一気に成型しないときれいな形に仕上がらない。飾り方もいろいろあるのだろうけど、うちでは白木の三方の上に裏白を敷いてのせ、上下の餅の間に昆布を挟み込んでいた。真白なモチのどこから掲句の奇想が湧いてくるのか不思議だけど、新年を寿ぐ鏡餅の類想、類句とは無縁だろう。この場合鏡餅と舌の連想をつなぐものは垂れた昆布あたりかもしれぬが、「真ッ赤」の形容にめでたさの裏に隠れた悪意や怖さが感じられる。真赤な舌を隠したまま素知らぬふりで正月の主役を務めていた鏡餅も割られておぜんざいになる日も近い。『月の茗荷』(2008)所収。(三宅やよい)


January 0512011

 おとなしく人混みあへる初電車

                           武原はん女

年の季語には「初」が付くものが驚くほど多い。笑って「初笑い」、泣いて「泣初」である。まあ、めでたいと言えばまことにめでたい。売っても、買っても、「売初」「買初」と「初」は付いてまわるのだから愉快だ。日本人の初ものに対するこだわりの精神は相当なもの。武原はん(俳号:はん女)の場合だったら「初舞」だろう。正月気分で電車は特ににぎやかなことが多いだろうけれど、着飾って妙にとり済ましている人もあるにちがいない。正月も人が出歩く頃になり混み合っているにもかかわらず、乗客はおとなしく静かに窓外に視線を遊ばせて、新年を神妙にかみしめているという図だろう。あわただしい年末、先日までの喧噪との対比が、この句の裏にはしっかり押さえられていると言える。ホッとして、しばしこころ落着く世界。「初電車」にしても「初車」にしても、電車や車はあまりにも私たちの日常身近なものになってしまったゆえに、季語として格別詠みこまれる機会が今は少ないかもしれない。はんは俳句を虚子に学び、句集『小鼓』などがある。虚子の句に「浪音の由比ケ浜より初電車」がある。のどかな江ノ電であろう。鎌倉の初詣とは別ののんびりした正月気分がただよう。平井照敏編『新歳時記・新年』(1996)所収。(八木忠栄)


January 0412011

 初鴉わが散策を待ちゐたり

                           相生垣瓜人

くて大きな鴉は、その頭の良さに狡猾を感じさせるところもあり、多くの人に嫌悪される傾向にある。一方、「初鴉」が季語にもなっている由縁は、日常における迷惑な鳥という姿以外に、古くから神の使者としての役割りも担っている。烏信仰として知られる熊野三山の各大社で配布される神札は鴉が絵文字となっており、現在でも護符として使用され、神とのつながりを保っている。掲句はいつもの散策コースに必ずいる鴉が今日は特別な初鴉となって作者の前に現れたのである。一年のほとんどを嫌われ者として過ごす鴉だが、このときだけは堂々と吉兆の象徴として、そのつややかな黒い姿もどことなく神々しく見えてくるから不思議である。歳時記で見られる初鴉、初雀、初鳩。人間の生活とともに繁殖してきた鳥たちへの役どころはどれも清々しく好ましい。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)




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