子供のころ凧はみな自分で作った。ちゃんと揚げられた記憶無し。(哲




2011年1結蛛i前日までの二句を含む)

January 0312011

 子規うさぎ虚子いぬ年や年巡る

                           矢島渚男

を折って数えてみると、ということは、子規と虚子とは七歳違いだ。二人の干支など思ったこともないけれど、こうして並べられてみると面白い。子規の柔軟さはたしかに「うさぎ」を思わせ、虚子の狷介さは「いぬ」に通じるところがあるような気がする。で、子規が年男ならば、今年は何巡目になるのだろうと、誰もがつい数えてみたくなる。これまた、俳句の妙味というものだろう。それぞれの人には干支があり、今年もまたそれぞれに年が巡ってきた。どんな年になるのだろうか。私が小学一年生くらいで干支を覚えたてのころ、家族や知人にそれぞれの干支を聞きまくったことがあった。自分は「とら」、父は「ねずみ」、母は「たつ」と、みな違っていた。で、遊びにきた叔父に聞いてみたら、「哲ちゃんと同じだよ。とらだよ」と答えた。私は覚えていないのだが、そのときとっさに口をとんがらせたらしい。「そんなことないよ。だって、おじさんはもう大人じゃないか。おんなじトシじゃないじゃないか」。後年、よく母が笑いながら話してくれたものだ。「俳句」(2011年1月号)所載。(清水哲男)


January 0212011

 ノートパソコン閉づれば闇や去年今年

                           榮 猿丸

時記によると、去年今年とは、「去年と今年」という並列の意味ではなく、年の行き来のすみやかなことをいうとあります。ということは今日の句は、大晦日の夜から元旦にかけてノートパソコンで作業をしていたことになります。ノートパソコンという言葉から思いつくのは、やはりオフィスの中です。深夜の、それもその年の最後まで仕事をしているところを想像してしまいます。年末まで仕事をしていた同僚も、一人、二人と「よいお年を」の挨拶をして帰っていったなと、思いながら集中して画面に見入っていたようです。気がつけば広いオフィスは自分のところだけに電気がついていて、あとは右も左も真っ暗です。やっと終えた仕事は、年初の会議に使う資料ででもあるのでしょうか。「なんとか終わったか」と安堵して時刻を見れば、気づかぬうちにすでに新年を迎えてしまっています。ほっと一人で笑みがこぼれてきます。明かりを消して、やっと昨年と、PCが閉じられます。『超新撰21』(2010・邑書林)所載。(松下育男)


January 0112011

 新年や人に疲れて人恋ふる

                           梧 六和

けましておめでとうございます。お正月の句を、と思いながら探すうち出会ったこの句の作者は、集まった親戚やひっきりなしに訪れる賀客に疲れているのか、初詣に行った神社か初売りの人混みに疲れているのか。いずれにせよ、年が改まったら一番に会いたい人には会えずにいるのだ。それは友人か、家族か、それとももっと特別な人か。一人で居る時しみじみ思うよりも、たくさんの人に囲まれながら、今傍にいないその人を思う瞬間の方がより強く自分の思いを感じるものだろう。恋われているその人も、同じようにふと作者を思っているのかもしれない、などとあれこれ思いをめぐらせながら読んだ。『図説 俳句大歳時記 新年』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)




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