最後の忘年会。もう飲み放題なんて無茶なことはできない面々。(哲




2010ソスN12ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 28122010

 数へ日のどこに床屋を入れようか

                           仁平 勝

え日が12月の何日からかとはっきり表記されている歳時記はないが、どれともなく指折り数えられるほどになった頃という言い回しを使っている。実際には、クリスマスが終わり、焦点が年明けに絞られた26日からの数日に強く感じられる。唱歌の「もういくつ寝ると…」には、子どもらしく新しい年を楽しみに指折り数える様子が歌われているが、こちらは切羽詰まった大人の焦燥感を表す言葉である。正月をさっぱりして迎えようというのは、家の片付けなどとともに姿かたちにもいえること。とはいえ、慌ただしく迫り来る年末に、自分の身を振り返ることはどんどん後回しになっていく。大晦日の湯に浸かりながら「あっ爪を切ってなかった」などと最後の最後になって小さな後悔が生まれたりもする。掲句は、歳末のスケジュールがぎっしりと書き込まれた手帳を前に頭を抱える作者である。晴れの日を迎えるためには、この散髪の二文字をどうにか入れなければならないのだ。〈冬木みなつまらなさうにしてをりぬ〉〈買初のどれも小さきものばかり〉『黄金の街』(2010)所収。(土肥あき子)


December 27122010

 損料の史記を師走の蛍かな

                           宝井其角

角とほぼ同世代の俳人・青木春澄に「いそがしや師走もしらず暮にけり」がある。あまりに忙しくて師走であることにも気づかないうちに暮れてしまったというのだから、ただならぬ忙しさだ。私の知る限り、師走の多忙ぶりを詠んだ句のなかでは、これがナンバー・ワンである。誇張はあるけれど、昔からとにかくこのように師走は忙しいのだ。いや、いまの私のようにそんなに忙しくはなくても、世間の多忙の風に巻き込まれてしまい、やはり慌ただしい気分で過ごしている。ところが掲句では、さすがに拗ね者の作者らしく、この慌ただしい時期に悠然と『史記』など読んでいる。「損料」はいまでも使われている経済用語で「衣服・道具などを借りたとき,使用料として支払う金銭」のことだから、この場合は貸本屋に払った賃貸料だ。忙しい世間をせせら笑うように、金を払ってまで読書しているのである。前書きに「雪窓」とあるから、外は雪だ。それを「外の雪」などとせずに、「師走の蛍」としたところが其角の手柄だろう。「雪」から「蛍」への連想は、むろん例の「蛍雪の功」の故事に依っている。つまり、借りてきた本が冬の窓に蛍を呼び寄せたわけだ。想像してみると、このイメージは実に美しいではないか。これこそ並々ならぬ風流心の産物という気がする。この忙しい時期に、ゆったりとした読書は不可能だとしても、たまにこの句を思い出してみるのは精神衛生上よさそうである。其角自選『五元集』(1747)所収。(清水哲男)


December 26122010

 ともかくもあなた任せのとしの暮

                           小林一茶

リスマスが終われば毎年、私の勤める会社の玄関先では、早々にツリーが取り払われ、翌日には新しい年を迎える飾り付けに変わっています。毎年の事ながら、作業をする人たちの忙しさが想像されます。私事ながら、長い間お世話になった会社を今年末で終える私にとっては、いつもの年末ではなく、健康保険だ、年金だ、雇用保険だで、手続きに忙しい日々が続いています。しかしこちらのほうは、あなた任せにするわけにもいかず、慣れない用紙に頭をひねっているわけです。さて、本日の句です。あいかわらずとぼけていて、わかったようでどうもよくわからない句です。「あなた」をどのように解釈するかによって、家庭の中のことを詠んだ句なのか、あるいは世の中すべてを見渡している句なのかが決まるのでしょう。どちらにしても、「ともかくも」この句を読んでいると、なぜか安心してしまいます。年末だからといって、そうあくせくする必要はない。どうせなるようにしかならないのだからと、だれかに肩をたたかれているような、ほっとした気持ちになってきます。『俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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