ぼつぼつ部屋の掃除にかかろうかな。大掃除などと気張らないで。(哲




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December 23122010

 鬱という闇に星撒く手のあらば

                           四ッ谷龍

ら命を断つ人は10数年連続で年間3万人を超えるという。朝夕の通勤途上、人身事故での電車の遅延は日常の一部となり、その慣れがおのれの感受性を摩滅させてゆくようで恐ろしい。子供からおとなの世界にまで蔓延する「うつ」は正体不明の「もののけ」のようなもので、その閉塞感が暗雲のごとく現代社会全体を覆っている。と、宗教学者の山折哲雄がどこかに書いていた。掲句の「鬱」も行きどころをなくして淀み、人を不安に陥れてゆく闇。つなぐ手を失ったまま個々に切り離された生き難い世の中に「星撒く手」という後半部の願いが眩しく感じられる。まことに生きる希望を撒いてゆくそんな手があるならばどれだけ救われるだろう。闇に閉ざされた人を救うのは人の結びつき以外にはなく、手を差し伸べる優しさ以外ない。今ほどその煌めきが恋しい時代はないのではないか。句にこめられた切実な思いが心に響く。『大いなる項目』(2010)所収。(三宅やよい)


December 22122010

 極道に生れて河豚のうまさかな

                           吉井 勇

豚チリの材料は、今やスーパーでも売っているから家庭でも容易に食べられる。とはいえ、河豚の毒を軽々に考えるのは危険だ。けれども、それほど怖がられないという風潮があるように思う。まかり間違えば毒にズドン!とやられかねない。この場合、河豚は鍋であれ刺身であれ、滅多なことには恐れることなく放蕩や遊侠に明け暮れる極道者が、「こんなにうまいものを!」と見栄を切って舌鼓を打っているのだ。ここで勇は自分を「極道」と決めつけているのである。遊蕩と耽美頽唐の歌風で知られた歌人・勇の自称「極道」はカッコいい。恐る恐る食べるというより、虚勢であるにせよ得意満面といった様子がうかがわれる。極道者はそうでなくてはなるまい。「河豚鍋」という落語がある。旦那は河豚をもらったが怖くて食べられない。出入りの男に毒味をさせようと考えて、少しだけ持たせてやる。二、三日して男に別状がないので、旦那は安心して食べる。男「食べましたか?」旦那「ああ、うまかったよ」男「それなら私も帰って食べよう」。ーーそんな時代もあった。原話は十返舎一九の作。蕪村には「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」があり、西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」がある。いかにも。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


December 21122010

 つまりただの菫ではないか冬の

                           金原まさ子

句のおしまいに投げ出されたような「冬の」のつぶやきがすてきだ。春のきざしである菫や蒲公英が、身を切るような冬に咲いていれば、そのけなげな様子に思わず足を止める。それを切なさと見るか、愛おしさと見るか、はたまた自然の摂理として受け止めるか。「つまりただの菫」には、大げさに騒ぎ立てることなく、静かにしておいてやれと押し殺した声で言い渡されるような冷淡ささえも感じさせるが、続く「冬の」に込められたつぶやきで、こらえていた気持ちはとめどない愛おしさに変換される。冬の日だまりのなかに咲いた菫は、一層可憐な存在として、読者の胸に刻印される。つれなく非情に書かれているからこその冬の菫への愛が、火のような情熱を帯びて読者の胸のずっと深いところにおさまっていく。一輪の菫は一句とともに、忘れられない映像となって永遠に生き続ける。『遊戯の家』(2010)所収。(土肥あき子)




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