Flickr投稿写真2000点記念。30秒で退屈する高速スライドショー。(哲




2010N1221句(前日までの二句を含む)

December 21122010

 つまりただの菫ではないか冬の

                           金原まさ子

句のおしまいに投げ出されたような「冬の」のつぶやきがすてきだ。春のきざしである菫や蒲公英が、身を切るような冬に咲いていれば、そのけなげな様子に思わず足を止める。それを切なさと見るか、愛おしさと見るか、はたまた自然の摂理として受け止めるか。「つまりただの菫」には、大げさに騒ぎ立てることなく、静かにしておいてやれと押し殺した声で言い渡されるような冷淡ささえも感じさせるが、続く「冬の」に込められたつぶやきで、こらえていた気持ちはとめどない愛おしさに変換される。冬の日だまりのなかに咲いた菫は、一層可憐な存在として、読者の胸に刻印される。つれなく非情に書かれているからこその冬の菫への愛が、火のような情熱を帯びて読者の胸のずっと深いところにおさまっていく。一輪の菫は一句とともに、忘れられない映像となって永遠に生き続ける。『遊戯の家』(2010)所収。(土肥あき子)


December 20122010

 どつちみち妻が長生きふぐ白子

                           西村浩風

ぐ(河豚)には「てっぽう」の異名がある。「あたると死ぬ」からだ。毎年冬になると、ふぐの毒にあたった人の記事が新聞に乗る。運が悪いと落命する人もいるけれど、最近はずいぶん少なくなってきた。それでも、いざふぐを食べるとなると、ほとんどの人は内心で身構える。中毒で死にたくないわけだが、それなら食べなければよいのにというのは不人情な理屈であって、やはり美味いものは食べておきたいのが人情である。だから掲句のように、いちおう言い訳をしてから食べることになる。食べなくたって、人はいずれ死ぬ。それもたとえ長生きしたところで、どっちみち妻よりも先に死ぬ宿命だ。だったらいま、このふぐにあたって死ぬにしても同じことではないか。などと、自分に言い訳しながら食べるのである。この句の面白さは、よく考えてみれば理屈にも何もなっていない理屈で自己説得しているところだ。これもまた人情のうち。これだから、人間は面白い。もう少し言えば、人間には他愛無くも可愛いらしいところがある。『円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


December 19122010

 忘年酒とどのつまりはひとりかな

                           清水基吉

末に限らず、会社の同僚との飲み会というものが、最近はずいぶん減ったように思います。個人的にそう感じるものなのか、時代の厳しさがそうさせているのか、定かではありません。とにかく、「この一年ご苦労様」と、暢気に乾杯のできる世相では、もうないようです。先週の日曜日に、詩の仲間との忘年会に参加しましたが、こちらのほうは実生活とは別の部分でのつながりでもあり、詩集が出たの、まだ出ないのと、はたから見たらどうでもいいことに話題は盛り上がって、気楽に酔うことができました。今日の句は、忘年会で酔っ払って気勢を上げていたものの、帰り道で一人一人と別れてゆくうちに、最後は自分だけになったということを詠っているのでしょうか。「とどのつまり」の一語が、どこかユーモラスに感じられます。電車を降りて家に向かう道では、酔いもだいぶ覚めてきています。そんな、元気のなくなってゆく様子が、自嘲気味に句の中にしまわれています。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます