正月は娘もいないし客も無し。それでも格好だけはつけなくては。(哲




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December 20122010

 どつちみち妻が長生きふぐ白子

                           西村浩風

ぐ(河豚)には「てっぽう」の異名がある。「あたると死ぬ」からだ。毎年冬になると、ふぐの毒にあたった人の記事が新聞に乗る。運が悪いと落命する人もいるけれど、最近はずいぶん少なくなってきた。それでも、いざふぐを食べるとなると、ほとんどの人は内心で身構える。中毒で死にたくないわけだが、それなら食べなければよいのにというのは不人情な理屈であって、やはり美味いものは食べておきたいのが人情である。だから掲句のように、いちおう言い訳をしてから食べることになる。食べなくたって、人はいずれ死ぬ。それもたとえ長生きしたところで、どっちみち妻よりも先に死ぬ宿命だ。だったらいま、このふぐにあたって死ぬにしても同じことではないか。などと、自分に言い訳しながら食べるのである。この句の面白さは、よく考えてみれば理屈にも何もなっていない理屈で自己説得しているところだ。これもまた人情のうち。これだから、人間は面白い。もう少し言えば、人間には他愛無くも可愛いらしいところがある。『円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


December 19122010

 忘年酒とどのつまりはひとりかな

                           清水基吉

末に限らず、会社の同僚との飲み会というものが、最近はずいぶん減ったように思います。個人的にそう感じるものなのか、時代の厳しさがそうさせているのか、定かではありません。とにかく、「この一年ご苦労様」と、暢気に乾杯のできる世相では、もうないようです。先週の日曜日に、詩の仲間との忘年会に参加しましたが、こちらのほうは実生活とは別の部分でのつながりでもあり、詩集が出たの、まだ出ないのと、はたから見たらどうでもいいことに話題は盛り上がって、気楽に酔うことができました。今日の句は、忘年会で酔っ払って気勢を上げていたものの、帰り道で一人一人と別れてゆくうちに、最後は自分だけになったということを詠っているのでしょうか。「とどのつまり」の一語が、どこかユーモラスに感じられます。電車を降りて家に向かう道では、酔いもだいぶ覚めてきています。そんな、元気のなくなってゆく様子が、自嘲気味に句の中にしまわれています。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


December 18122010

 落ちる葉のすつかり落ちて休憩所

                           上田信治

葉はやがて枯葉に、そして落葉となって土に還っていく。葉が落ちきってしまった木は枯木と呼ばれるが、そんな一本の木に何を見るか。青空に夕空に美しい小枝のシルエット、しっかり抱かれた冬芽、通り過ぎていく風の音、枝先を包む乾いた日差し。何かをそこに感じて、それを詠もうとすることに疲れた身にこの句は、少し離れたところから視線を投げかけるともなく投げかけている、勝手にそんな気がした。休憩所は、さまざまな人がちょっと立ち寄って、一息ついたら去っていく場所。そんな通りすがりの束の間に見上げる木には、もう一枚の葉も残っていない。落ちる葉、は、芽吹いた時から最後は落ちると決まっている葉、であり、そんな葉という葉が例外なくすべて落ちていくことは自然なことだ。ただそれを詠んでいるのに、すっと感じ入るのは、休憩所、という言葉の置かれ方の良さだろうか。『超新撰21』(2010・邑書林)所載。(今井肖子)




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