今年最後の余白句会。忘年会はあの「かいぶつ句会」と合同で。(哲




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December 18122010

 落ちる葉のすつかり落ちて休憩所

                           上田信治

葉はやがて枯葉に、そして落葉となって土に還っていく。葉が落ちきってしまった木は枯木と呼ばれるが、そんな一本の木に何を見るか。青空に夕空に美しい小枝のシルエット、しっかり抱かれた冬芽、通り過ぎていく風の音、枝先を包む乾いた日差し。何かをそこに感じて、それを詠もうとすることに疲れた身にこの句は、少し離れたところから視線を投げかけるともなく投げかけている、勝手にそんな気がした。休憩所は、さまざまな人がちょっと立ち寄って、一息ついたら去っていく場所。そんな通りすがりの束の間に見上げる木には、もう一枚の葉も残っていない。落ちる葉、は、芽吹いた時から最後は落ちると決まっている葉、であり、そんな葉という葉が例外なくすべて落ちていくことは自然なことだ。ただそれを詠んでいるのに、すっと感じ入るのは、休憩所、という言葉の置かれ方の良さだろうか。『超新撰21』(2010・邑書林)所載。(今井肖子)


December 17122010

 腹の立つ人にはマスクかけて逢ふ

                           岡本 眸

句の中の季語の扱いが従来的な季節感を踏襲しているか、そうだとすれば、その中にどう作者の色が付加されているかいないか、或いは、季語を季節感と切り離して用いているか、ならば季節感がないのに季語を用いるところに伝統詩型の要件に対する作者の理解や工夫がどう生かされているか。そういう点も俳句評価の一角度だと僕は思うのだが、例えばハナから無季肯定の評者にはこういう角度は評価の外なのであろう。この句のマスクには冬期の季節感はありや。顔を隠すという意味においては、例えばコンビニ強盗の目出し帽と同じではないだろうか。その用途は四季を問わない。冬季の風邪を予防し自らの菌の飛散を防ぐというマスクの本意をどう「自分の事情」に引きつけてこなすか、そこに季語必須派の工夫、すなわち真の実力が見えてくる。新潮文庫『新改訂版俳諧歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


December 16122010

 ふるさとの母には猫のお取り巻き

                           内田真理子

節を表す言葉はないが、陽のあたる縁側に何匹もの猫に取り囲まれているおばあさんの姿が思い浮かぶ。家族は遠い町へ出て行ってしまって一人でくらしているけれど、畑で採れた白菜を干したり、枯葉を掃いて焚火をしたりしているとうちの猫やら近所の猫やらが足元にすりよってくる。そんな猫たちはふるさとの母親になくてはならないお友達であり、家族なのだろう。「取り巻き」と言えば力のある人にコバンザメのようにすりよってゴマをする、あまりいい意味にはつかわれない。だけどそれが猫で、しかも「お」を付けたもったいぶった言い方が猫たちと母のほのぼのとした関係を想像させる。作者は柳人。「ともだちになれると思うなつめの木」「歳月を馬に曳かせて油売り」『ゆくりなく』(2010)所収。(三宅やよい)




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