母の退院立ち会いに。ラッシュを避けて暗いうちに家を出よう。(哲




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December 15122010

 鮒釣れば生まれ故郷の寒さかな

                           佐々木安美

して楽しい釣りではなく、寒さのなかで一人じっと釣糸を垂れている図であろう。首尾よく鮒を釣りあげたことによって、なぜか故郷の寒さが忍ばれる。うん、納得できる。この場合、生まれ故郷で釣っているのではあるまい。安美の「生まれ故郷」は山形県。この寒さは故郷だけでなく、わが身わが心境の寒さでもあるのだと思われる。故郷とは、ある意味で寒いもの。鮒を釣りあげた喜びにまさる、身の引き締まるような一句ではないか。「釣りは鮒に始まって鮒に終わる」と言われる。新刊詩集『新しい浮子 古い浮子』(2010・栗売社)の冒頭の詩「十二月田」の第一行は「詩を書くのをやめてから/フナを釣り始めた」と始まり、「フナが/新しい友だちということではないのだが/フナを/釣らないではいられない」「無言で/フナを釣っている」といったフレーズがある。この詩のパート3は、掲句と「長竿の底より遠い冬の鮒」など俳句四句のみで構成されている。理由はわからないが、安美はしばらく詩を離れていて、これが二十年ぶりに刊行した詩集である。抑えられたトーンで、忘れがたい世界が展開されている。詩人が十年やそれ以上沈黙する例はある。(私も十年間、個人詩誌を出さなかったことがあった。)短詩型の場合は結社があるから、毎月必ず作品を出さなければならないから、出来は悪くても書きつづけるーーと岡井隆が最近の某誌で語っていた。そのあたりにも、詩と短詩型の相違があるかもしれない。(八木忠栄)


December 14122010

 枯るるとは縮むこと音たつること

                           大木あまり

れに対し、中七の「縮む」までは負のイメージをまとうが、続く「音たつること」には一切のしがらみを断ち切ったような救いを感じる。先日一面の枯葉に風が渡り、むくむくと動く風の道を目の当たりにした。背後から迫り来る海鳴りのような音が、髪をなぶり背中を押して通り過ぎ、彼方まで駆け抜けていった。またあるときは、残っていた桐の大きな葉が視界の先で「ぷつん」と音をたてて梢から離れた。風は乾いてゆがんだ葉をくるんと空中で一回転させ、つーつーすとん、とやわらかに着地させた。木の葉が目の前で生まれたての落葉となる一部始終を、うっとりと見守った。万象は枯れることで音を手にいれる。それはまるで声を与えられたかのように、高く低く、こすれ合い、ささやき合う。香りや柔らかさを手放し、声を手にした枯れものたちに、思わず人間を重ねてしまうほどの風貌が加わる。『星涼』(2010)所収。(土肥あき子)


December 13122010

 冬うらら隣の墓が寄りかかる

                           鳴戸奈菜

るで電車の座席で隣りの人が寄りかかってくるように、墓が寄りかかっている。実景であれ想像であれ、作者はその光景に微笑している。微笑を浮かべているのは、なんとなく滑稽だからという理由からではないだろう。このとき作者はほとんど寄りかかられた側の墓の心持ちになっていて、死んでもなお他人に寄りかかってくる人のありようを邪魔だとか迷惑だとかと思わずに、許しているからだと思われる。この心境は同じ句集のなかにある「冬紅葉愛を信ずるほど老いし」に通じており、老いとともに現れる特有のそれである。若ければ寄りかかってきた人を無神経だとかガサツだとかと撥ね除けたくなるのに、老いはむしろそれを許しはじめる。なにはともあれ、そんな迷惑行為ができるのも生きているからなのだと、生命の側からの思いが強くなるからなのである。それがまた、掲句では相手の墓の主は死んでまで寄りかかってきた。それを、どうして迷惑なんぞと振り払うことができようか。うららかな冬晴れのなかで、作者はしみじみと「愛」を信ずる情感に浸っている。『露景色』(2010)所収。(清水哲男)




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