昔の新宿仲間の忘年会は新年会に。のんびり集まろうというわけ。(哲




2010ソスN12ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 14122010

 枯るるとは縮むこと音たつること

                           大木あまり

れに対し、中七の「縮む」までは負のイメージをまとうが、続く「音たつること」には一切のしがらみを断ち切ったような救いを感じる。先日一面の枯葉に風が渡り、むくむくと動く風の道を目の当たりにした。背後から迫り来る海鳴りのような音が、髪をなぶり背中を押して通り過ぎ、彼方まで駆け抜けていった。またあるときは、残っていた桐の大きな葉が視界の先で「ぷつん」と音をたてて梢から離れた。風は乾いてゆがんだ葉をくるんと空中で一回転させ、つーつーすとん、とやわらかに着地させた。木の葉が目の前で生まれたての落葉となる一部始終を、うっとりと見守った。万象は枯れることで音を手にいれる。それはまるで声を与えられたかのように、高く低く、こすれ合い、ささやき合う。香りや柔らかさを手放し、声を手にした枯れものたちに、思わず人間を重ねてしまうほどの風貌が加わる。『星涼』(2010)所収。(土肥あき子)


December 13122010

 冬うらら隣の墓が寄りかかる

                           鳴戸奈菜

るで電車の座席で隣りの人が寄りかかってくるように、墓が寄りかかっている。実景であれ想像であれ、作者はその光景に微笑している。微笑を浮かべているのは、なんとなく滑稽だからという理由からではないだろう。このとき作者はほとんど寄りかかられた側の墓の心持ちになっていて、死んでもなお他人に寄りかかってくる人のありようを邪魔だとか迷惑だとかと思わずに、許しているからだと思われる。この心境は同じ句集のなかにある「冬紅葉愛を信ずるほど老いし」に通じており、老いとともに現れる特有のそれである。若ければ寄りかかってきた人を無神経だとかガサツだとかと撥ね除けたくなるのに、老いはむしろそれを許しはじめる。なにはともあれ、そんな迷惑行為ができるのも生きているからなのだと、生命の側からの思いが強くなるからなのである。それがまた、掲句では相手の墓の主は死んでまで寄りかかってきた。それを、どうして迷惑なんぞと振り払うことができようか。うららかな冬晴れのなかで、作者はしみじみと「愛」を信ずる情感に浸っている。『露景色』(2010)所収。(清水哲男)


December 12122010

 あたためて何包みたき掌か

                           能村登四郎

識してそうしたわけではないのですが、これまでの選句を見直してみれば、わたしはすでにいくつも能村さんの句をここにとりあげてきました。それはもちろん、句の見事さによるものですが、それだけではなく、もっと手前の、ものの見方や感じ方のところで、すでに能村さんに捕らえられてしまっているのかもしれません。今日の句も、ああいいなという感想をまず持ちます。でも、ああいいなというのは、描かれた掌の優しさによるものなのか、このような句を詠むことのできる作者のあたたかさのためなのか、判然としません。火鉢か、あるいは焚き火にでも手を広げてあたためているのでしょう。あたたまった手のひらを、自分のためだけではなく、何かを包んであげたいという思いへ広げてゆく。そんな思考の向き方に、読者はもう十分に温まってしまいます。『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)




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