December 132010
冬うらら隣の墓が寄りかかる
鳴戸奈菜
まるで電車の座席で隣りの人が寄りかかってくるように、墓が寄りかかっている。実景であれ想像であれ、作者はその光景に微笑している。微笑を浮かべているのは、なんとなく滑稽だからという理由からではないだろう。このとき作者はほとんど寄りかかられた側の墓の心持ちになっていて、死んでもなお他人に寄りかかってくる人のありようを邪魔だとか迷惑だとかと思わずに、許しているからだと思われる。この心境は同じ句集のなかにある「冬紅葉愛を信ずるほど老いし」に通じており、老いとともに現れる特有のそれである。若ければ寄りかかってきた人を無神経だとかガサツだとかと撥ね除けたくなるのに、老いはむしろそれを許しはじめる。なにはともあれ、そんな迷惑行為ができるのも生きているからなのだと、生命の側からの思いが強くなるからなのである。それがまた、掲句では相手の墓の主は死んでまで寄りかかってきた。それを、どうして迷惑なんぞと振り払うことができようか。うららかな冬晴れのなかで、作者はしみじみと「愛」を信ずる情感に浸っている。『露景色』(2010)所収。(清水哲男)
December 122010
あたためて何包みたき掌か
能村登四郎
意識してそうしたわけではないのですが、これまでの選句を見直してみれば、わたしはすでにいくつも能村さんの句をここにとりあげてきました。それはもちろん、句の見事さによるものですが、それだけではなく、もっと手前の、ものの見方や感じ方のところで、すでに能村さんに捕らえられてしまっているのかもしれません。今日の句も、ああいいなという感想をまず持ちます。でも、ああいいなというのは、描かれた掌の優しさによるものなのか、このような句を詠むことのできる作者のあたたかさのためなのか、判然としません。火鉢か、あるいは焚き火にでも手を広げてあたためているのでしょう。あたたまった手のひらを、自分のためだけではなく、何かを包んであげたいという思いへ広げてゆく。そんな思考の向き方に、読者はもう十分に温まってしまいます。『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)
December 112010
誰の手もそれて綿虫まどかなれ
大竹きみ江
綿虫、大綿、雪虫。あんなに小さいのにどうして大綿なのだろう、と思ったら、トドノネオオワタムシというのが正式な名称とのこと。その存在を、名前と共に認識したのは私の場合は俳句を始めてからだ。初めて、あ、これが綿虫か、とはっきり認識した時、自然と手が出たのを思い出す。特に捕まえようとしたわけでもなかったけれど、ふっと手が出てしまったのだった。きっとちょっと指があたっただけでも、綿虫にとっては大きい衝撃に違いない。綿虫が指をすり抜ける、というような見方はありがちだけれど、それて、と、まどかなれ、に願いのこもった慈しみが感じられる。知人が、飛んできた蚊をたたいたら小学一年生のお嬢さんに、蚊にも命があるんだよ、と言われてはっとしてしまった、と言っていたのを思い出した。まだまだ読みきれない『アサヒグラフ 女流俳句の世界』(1986年7月増刊号)所載。(今井肖子)
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