若い詩人たちとの忘年会。年末になると詩が押し寄せてくる。(哲




2010ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12122010

 あたためて何包みたき掌か

                           能村登四郎

識してそうしたわけではないのですが、これまでの選句を見直してみれば、わたしはすでにいくつも能村さんの句をここにとりあげてきました。それはもちろん、句の見事さによるものですが、それだけではなく、もっと手前の、ものの見方や感じ方のところで、すでに能村さんに捕らえられてしまっているのかもしれません。今日の句も、ああいいなという感想をまず持ちます。でも、ああいいなというのは、描かれた掌の優しさによるものなのか、このような句を詠むことのできる作者のあたたかさのためなのか、判然としません。火鉢か、あるいは焚き火にでも手を広げてあたためているのでしょう。あたたまった手のひらを、自分のためだけではなく、何かを包んであげたいという思いへ広げてゆく。そんな思考の向き方に、読者はもう十分に温まってしまいます。『鑑賞歳時記 第四巻 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


December 11122010

 誰の手もそれて綿虫まどかなれ

                           大竹きみ江

綿虫、大綿、雪虫。あんなに小さいのにどうして大綿なのだろう、と思ったら、トドノネオオワタムシというのが正式な名称とのこと。その存在を、名前と共に認識したのは私の場合は俳句を始めてからだ。初めて、あ、これが綿虫か、とはっきり認識した時、自然と手が出たのを思い出す。特に捕まえようとしたわけでもなかったけれど、ふっと手が出てしまったのだった。きっとちょっと指があたっただけでも、綿虫にとっては大きい衝撃に違いない。綿虫が指をすり抜ける、というような見方はありがちだけれど、それて、と、まどかなれ、に願いのこもった慈しみが感じられる。知人が、飛んできた蚊をたたいたら小学一年生のお嬢さんに、蚊にも命があるんだよ、と言われてはっとしてしまった、と言っていたのを思い出した。まだまだ読みきれない『アサヒグラフ 女流俳句の世界』(1986年7月増刊号)所載。(今井肖子)


December 10122010

 時を違へてみな逝きましぬ今日は雪

                           中村草田男

つ生まれようと生ある者は例外なく死ぬ。過去から果てしもなく生まれたら必ず死んで今日に至る。そして今日空から雪が降りてくる。限りない死者のように。草田男しか出来ない句。生と死と永遠を見ている。「人間探求派」としてよく比較される草田男と加藤楸邨の違いを考えてみると、作品の中に一貫して流れる強靭なひとつの思想が草田男には感じられるのに対して楸邨は一句一句いつも白紙から出発する。型の確立や技術の熟達を楸邨は意識的に嫌った。それはほんとうに言いたいことがなくても、ほど良い季語の斡旋や取り合わせで作品が作れてしまうことの怖さを言っているのだ。草田男はどの句も確信的思想の土台の上に置かれている。観念が土台にある場合は通常は解説的になり、啓蒙的色彩が濃くなる。草田男は季節感を日本的なものの在り処として捉えて生々しい把握をこころがけている。だから観念が浮き立つことがない。この句で言えば「今日は雪」。限りなく空から降りてくる雪片に限りない死者を重ねて見ている。この生々しい実感的把握は草田男、楸邨に共通する部分である。『大虚鳥』(2003)所収。(今井 聖)




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