太平洋戦争開戦日。3年9ヶ月の泥沼といまに残る傷跡の数々。(哲




2010ソスN12ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 08122010

 勘当の息子に会ひし火事見舞ひ

                           山遊亭金太郎

く知られているように、江戸の名物は「火事に喧嘩に中っ腹」と言われたという。火事で被災した家、または火元の近所の家に対して見舞いに伺う風習を「火事見舞い」とか「近火見舞い」と呼ぶ。私なども小さい頃、父が親戚へ近火見舞いに出かけて行った記憶があるけれど、今もやはり行われているようだ。日本酒かお金を包んで「お騒々しいことで…」と挨拶する。掲句の意味は、火事見舞いに行った先方の家で、勘当した息子にばったり出会ったというのではない。金太郎は落語家である。「火事息子」という落語があり、それによっている。ある日、神田の大きな質屋の近くから出火した。番頭が蔵に目塗りをする作業に取りかかるけれど、慣れない仕事で勝手がちがうからまごまごしている。そこへマシラのごとく屋根から屋根を伝ってやってきた若い火消し人足がいて、番頭に目塗りの指示をする。火事がおさまって(「しめって」と言う)その男を確かめると、なんと火事が好きで勘当になった質屋の若旦那。……それから父親と母親の情愛が屈折して展開するという、泣かせる人情話風の傑作落語である。この落語を知らない人には少々理解しにくい俳句かもしれない。金太郎は結社「百鳥」に属し、「秋の蠅八百屋に葱で追はれけり」がある。火事の句では金子兜太の「暗黒や関東平野に火事一つ」が忘れられない。「百鳥」2010年11月号所載。(八木忠栄)


December 07122010

 この濠にゐる二百羽の白鳥よ

                           青山 結

とあって、即座に皇居の濠を思ったが、そこは白鳥は野生の渡り鳥ではなく、外苑を管理する団体が飼育しているものだった。個体数も、昭和28年にドイツの動物園から24羽を購入してより、残念ながら増えることなく年々減少。現在ではたったの12羽だという。当然皇居の濠に、白鳥が埋め尽くすほどいるとはおよそ考えられないのに、強く想像をさせるのは、最後の最後に付いている「白鳥よ」に込められた詠嘆に違いない。この詠嘆で、読者は身近な濠を眼前に引き寄せ、まぼろしの白鳥をずらりと配置させるのだ。とはいえ、掲句ははたして実際に白鳥を目の前にしているのだと思う。二百羽という一面の白鳥の存在の迫力と、遠くから渡ってきた大きな白い翼へのねぎらいもまた、「白鳥よ」の持つ呼びかけに反応する。ことほどさように「よ」の一文字で広がる余韻は、情熱的で、想像力をかきたてる。〈ちちははの墓に入りたし白木槿〉〈青大将乳房二つを固くして〉『桐の花』(2010)所収。(土肥あき子)


December 06122010

 老人のかたちになつて水洟かむ

                           八田木枯

者八十代の句。身に沁みるなあ。若い読者からすれば「それがどうしたの」くらいの感想しか浮かばないかもしれない。しかし、老いを自覚した人間にとっては、はっとさせられるような句なのだ。水洟(みずばな)をかんでいるのは、他人ではなく作者当人である。背を丸くして、さほどの勢いもないかみ方である。誰でもそうだろうが、こういう「老人のかたち」はなかなか自覚しにくいものなのだ。周囲の目からはともかく、自分の老いを認めたくない意識も働くので、当人は自分がいかにも老人らしくふるまっていることにはなかなか気づかない。けれども何かの動作の折に、おやっという感じで気づくときが来る。「オレもトシだなあ」と「かたち」として自覚させられる。いったんそういうことに気がつくと、あとはいわば芋づる式に「そういえば…」と、生活のさまざまな場面での老いの「かたち」に気がついていくことになる。最初のうちこそなにがしかの悲哀感も伴うけれど、だんだんその「かたち」を受容し容認し、是認していく。このときに自分はまったき老人になったわけで、若い頃とは異なる所作にもどこか苦笑いのような感情とともに対応できていく。掲句は、そうした老いの機微を捉えたものだ。だから、最近の私などにはことさらに身に沁みるのである。『鏡騒』(2010)所収。(清水哲男)




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