ゴダール映画祭。見に行きたいけど、日比谷までは遠いなあ。(哲




2010ソスN11ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 28112010

 子の暗き自画像に会ふ文化祭

                           藤井健治

化祭というのは秋の季語でしょうか。この句をわたしは、11月22日の朝日新聞の朝刊で読みました。詩はともかく、句に接することのそれほど多くないわたしの日常で、朝日俳壇は貴重な俳句との接点になっています。藤井さんがこの句を詠んだ時から、それが投句され、さらに選者によって選ばれ、選評とともに朝日俳壇に載るまでには、おそらく何週間かがすでに経っています。ですから、新聞で読む句はいつも、その時のではなく、少し前の季節の風を運んでくれます。今日の句を読んで、ああこの気持ちよくわかるなと感じた人は少なくないでしょう。子供というのは、いつまでも親の見えるところにいるのではないのだということを、実感をもって示してくれています。絵に限らず、文学においても、身内のものが創ったものを目の当たりにすることには、どこかためらいを感じます。そのためらいは、単に恥ずかしさだけのせいではないようです。どこか、自分のある部分が、その創作の暗さとつながっているような、申し訳ないような気持ちにもなるのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年11月22日付)所載。(松下育男)


November 27112010

 猫の目に海の色ある小春かな

                           及川 貞

っ越して一年足らず、さすがにもう段ボールはないけれど、捨てられなかった古い本や雑誌がとりあえず棚に積まれている。それを少しずつ片付けていて「アサヒグラフ」(1986年7月増刊号)に遭遇した。女流俳句の世界、という特集で、美しい写真とともに一冊丸ごと女性俳人に埋め尽くされ、読んでいるときりもなく結局片付かない。そのカラーグラビアにあったこの句に惹かれ、後ろの「近影と文学信条」という特集記事を読みますます惹かれた。今ここに書けないのが残念だが、淡々とした語り口に情熱がにじんでいる。句帳を持たず、その時々の句は頭の中にいくつもありそれで十分、とあるが、この句もそんな中のひとつなのか。小さな猫の目の中に広がる海は、作者の心の奥にある郷愁の色を帯びて、さまざまな思いごと今は日差しに包まれている。(今井肖子)


November 26112010

 冬の鹿に赤き包を見せてゆく

                           長谷川かな女

覚の句。冬から連想されるモノクロのイメージに実際の色である赤を合わせた。つまり白と赤の対照である。食いしん坊の鹿の興味を引くような包みをみせるという「意味」ももちろん内容としてのテーマだが、それ以上に色調に対するセンスを感じさせる。70年以上も前の句なのに古さを感じさせないのは俳諧風流や花鳥諷詠的情緒といったツボに執心することなく目の前の「日常」を写し取ったからだ。そのときその瞬間の「現実」こそが普遍に到る入口である。『雨月』(1939)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます