大臣の「失言」と言うが、むしろ率直な物言いとして評価したい。(哲




2010ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19112010

 冬の日と余生の息とさしちがふ

                           斎藤 玄

日がこちらに向って差してくる。こちらの余生の息を向こう側に向って吐く。冬日と息が交差する。真剣な冬日との対峙がここにある。はかない人の生と、太陽がある限りの冬日の永遠性が序の口と白鵬のように激突する。永遠という巨人に対峙して勝てるわけもない。しかしそのときその瞬間にそこに存在したという実感が得たいからさしちがえるのだ。他ジャンルと比べたとき俳句に誇りがもてるのはこういう句に出会ったときだ。まさに捨身の一句。『雁道』(1979)所収。(今井 聖)


November 18112010

 熊穴に入る頃か朱肉の真っ赤なり

                           笠井亞子

も穴籠りする季節になったが、その前の餌を求めて人の住むところまで降りてくるニュース後を絶たない。猛暑でどんぐりが少ないことが原因と言うが、山の近くに住んでいる人達は気が気でないだろう。東京でも奥多摩や秩父では熊と鉢合わせするかもしれず、リュックに熊よけの鈴をつけて歩いている登山者を多く見かけた。印鑑を押す時に使う朱肉は「朱と油を練り合わせ艾(もぐさ)やその他の繊維質のものに混ぜ合わせて作る。」と広辞苑にある。考えてみれば「朱肉」とは不思議な言葉だ。黒のプラスチックケースの蓋をあけるとパカッと真っ赤な朱肉が収まっている。その色の組み合わせにふっと冬籠りする熊に思いが及んだのか。ツキノワグマがくわっと開けた口の赤さは朱肉の赤さ以上に際立つことだろう。人と熊の不幸な接近を思えば「真っ赤なり」の言葉が暗示的でもある。『東京猫柳』(2008)所収。(三宅やよい)


November 17112010

 ポケットのなかでつなぐ手酉の市

                           白石冬美

年のことながら、酉の市の頃になると、ああ今年も残りわずかという感慨を覚えずにいられない。今年は11月7日と19日、二の酉まで。酉の市の時季、夜はかなり冷えこんでくるから、コートを着た参詣者は肩をすくめ背を丸めて歩く。恋人同士だろう、若い男女が人混みに押されながら寄り添い、男性のコートのポケットに女性が手を差し入れ、人知れずしっかりと握りあっている。どんな寒風が吹いていても、そこだけは寒さ知らずの熱々の闇。ほほえましい図である。外に出ているほうの手には小さな熊手が握られているのかもしれない。恋人同士なら寒暖に関係なく、ポケットのなかで手をつなぐことはいつでもできるけれど、掲句ではにぎわっている「酉の市」がきいている。二人は参詣したあと、気のきいた店で熱燗でも酌み交わすのかも。酉の市の夜、周辺の街はどの店も客でいっぱいになってしまうから大変だ。浅草では江戸時代中期以降に繁昌しだしたと言われる祭礼だが、もともとは堺市鳳町の大鳥神社が本社。関東では吉原に近かった千束の大鳥神社が中心になっている。久保田万太郎の句に「くもり来て二の酉の夜のあたゝかに」がある。冬美の俳号は茶子。他に「あやまちを重ねてひとり林檎煮る」がある。「かいぶつ句集」第五十号・特別記念号(2009)所載。(八木忠栄)




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