冷え込むという予報。入浴がいけなかったか。また少し不調に。(哲




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November 16112010

 初冬や触るる焼きもの手織もの

                           名取里美

ャサリン・サンソムの『LIVING IN TOKYO』は、イギリスの外交官である夫とともに昭和初期に日本に暮らした数年をこまやかな視線で紹介した一冊である。そのなかで、ある日本人の姿として店に飾られている一番高価な着物を、買えるはずもない田舎の女中のような娘があかぎれの手で触れているのを見て驚く。そして「日本では急き立てられることもなく、娘は何時間でも好きなだけ着物に触ったりじっと眺めていることができます」と、誰もが美しいものに触れることのできる喜びを書いている。布の凹凸、土のざらつき、どれも手から伝わる感触が呼び起こすなつかしさがある。わたしたちはそれぞれの秘めたる声に耳を傾けるように手触りを楽しむ。初冬とは、ほんの少し寒さが募る冬の始まり。まだ震えるほどの寒さもなく、たまには小春のあたたかさに恵まれる。しかし、これから厳しい冬に向かっていくことだけは確かなこの時期に、ふと顔を出す人恋しさが「触れる」という動作をさせるのだろう。動物たちが鼻先を互いの毛皮にうずめるように、人間はもっとも敏感な指先になつかしさを求めるのかもしれない。〈産声のすぐやむ山の花あかり〉〈つぎつぎに地球にともる螢の木〉『家』(2010)所収。(土肥あき子)


November 15112010

 均一の古書を漁りて風邪心地

                           遠藤若狭男

んとなく風邪を引いたような感じ。気分のよいものではない。いまの私がちょうどそんな状態にあるので、作者の心持ちがよくわかるような気がする。いつもの元気を欠いているので、古書店の前を通りかかっても、店の奥に入っていく気力がない。どんな店でもどこかで消費者を刺激するようにできているので、ふだんは地味な感じのする古書店ですらも、入るのには実はなかなかに体力を要するものなのだ。身体が弱ると、そのことが実感的によくわかる。だから、作者は店の前の百円か二百円均一のコーナーにぼんやりと目を配っている。べつに掘り出し物を発見しようという意欲も湧いてはこない。もう立ち止まったときから、何も買わないで離れていく自分がいるのだ。それでも一応背表紙くらいは読んでみる。読んでみるが、手に取るところまではいかない。そんな心持ちを書きとめている。なんということもない句だけれど、そのなんということもないところを書くのも、俳句ならではの表現と言えるだろう。『去来』(2010)所収。(清水哲男)


November 14112010

 先生ありがとうございました冬日ひとつ

                           池田澄子

時記を読んでいて、必ず立ち止まってしまう俳人が何人かいます。池田さんもそのうちの一人。前後に並ぶ句とは、いつもどこかが違う。どうして池田さんの句は、特別に見えるんだろうと、考えてしまいます。ところで僕は、必要があってこのところ「まど・みちお」の童謡や詩をずっと読んでいますが、まどさんの詩も、なぜかほかの詩人とは違う出来上がり方なのです。わかりやすい表現に徹している俳人や詩人はほかにいくらでもいます。でも、問題はそんなところにはありません。池田さんやまどさんは、余計な理屈や理論などで武装する必要もなく、表現の先端がじかに真理に触れることができる、そんな能力を持ち合わせているのかなと、思うわけです。特別なのは、だから句の出来上がり方だけではなくて、句に向かう姿勢そのものなのです。あたたかな冬の日に、ありがとうと素直に言えるこころざしって、だれもが感じることができるのに、なかなかこうしてまっすぐに表すことは、できません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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