買えもしない高級一眼レフのカタログを眺めてみる。SIGH.(哲




2010ソスN11ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 15112010

 均一の古書を漁りて風邪心地

                           遠藤若狭男

んとなく風邪を引いたような感じ。気分のよいものではない。いまの私がちょうどそんな状態にあるので、作者の心持ちがよくわかるような気がする。いつもの元気を欠いているので、古書店の前を通りかかっても、店の奥に入っていく気力がない。どんな店でもどこかで消費者を刺激するようにできているので、ふだんは地味な感じのする古書店ですらも、入るのには実はなかなかに体力を要するものなのだ。身体が弱ると、そのことが実感的によくわかる。だから、作者は店の前の百円か二百円均一のコーナーにぼんやりと目を配っている。べつに掘り出し物を発見しようという意欲も湧いてはこない。もう立ち止まったときから、何も買わないで離れていく自分がいるのだ。それでも一応背表紙くらいは読んでみる。読んでみるが、手に取るところまではいかない。そんな心持ちを書きとめている。なんということもない句だけれど、そのなんということもないところを書くのも、俳句ならではの表現と言えるだろう。『去来』(2010)所収。(清水哲男)


November 14112010

 先生ありがとうございました冬日ひとつ

                           池田澄子

時記を読んでいて、必ず立ち止まってしまう俳人が何人かいます。池田さんもそのうちの一人。前後に並ぶ句とは、いつもどこかが違う。どうして池田さんの句は、特別に見えるんだろうと、考えてしまいます。ところで僕は、必要があってこのところ「まど・みちお」の童謡や詩をずっと読んでいますが、まどさんの詩も、なぜかほかの詩人とは違う出来上がり方なのです。わかりやすい表現に徹している俳人や詩人はほかにいくらでもいます。でも、問題はそんなところにはありません。池田さんやまどさんは、余計な理屈や理論などで武装する必要もなく、表現の先端がじかに真理に触れることができる、そんな能力を持ち合わせているのかなと、思うわけです。特別なのは、だから句の出来上がり方だけではなくて、句に向かう姿勢そのものなのです。あたたかな冬の日に、ありがとうと素直に言えるこころざしって、だれもが感じることができるのに、なかなかこうしてまっすぐに表すことは、できません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 13112010

 朴落葉いま銀となりうらがへる

                           山口青邨

しいとはこのことか、という朴落葉を先日初めて見た。冬近い山湖のほとりで、それは落葉というよりまるで打ち上げられた魚の大群のようで、明らかに生気のない白さでことごとく裏返っていた。見上げた朴の大木には、今にも落ちてきそうな葉が揺れているのだが、どれもまだ枯れ色の混ざった黄色で、ところどころ緑が残っている。じっと見るうち、そのうちの一枚がふっと木を離れ、かさりと落葉に重なった。手にとってみると、その葉の裏はもう白くなりかけている。雨の後だったので、どの落葉も山気を含んで石のような色をしていたが、からっと晴れていたら、この句のように銀色に光るだろう。落葉になる一瞬、静かに舞うさま、落ちてなお冬日に耀く姿をゆっくり見せながら、いま、の一語が朴落葉に鮮やかな存在感を与えている。『俳句歳時記 第四版 冬』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)




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