突然くしゃみの連発。止ったけれど風邪だな。13ヶ月ぶり(哲




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November 08112010

 いちにちが障子に隙間なく過ぎぬ

                           八田木枯

者は八十代半ば。寒い日だったのか、一日中外出もせずに部屋に閉じこもっていたのだろう。時間の経過を感じるのは、ただ障子を隔てた外光の移り行きによってである。日中は日差しがあたり、木などの影も写る。それがだんだんと淡くなって薄墨色に溶けてゆき、やがて暗くなってきた。作者はべつだん意識して障子を見つめていたわけではないのだけれど、そんな一日をふり返ってみれば、目の端の障子が雄弁に時の経過を物語っていたことを知るのである。まさに時が「隙間なく」流れていることを、障子一枚で表現したところに、この句の新鮮な味わいがある。しかも作者が、この句に何の感慨もこめていないところが、かえって刺激的だ。無為の一日を惜しむ気持ちも、逆に過ぎ去った時間を突き放すような韜晦の気持ちが生れているわけでもない。作者に比べれば若造でしかない私にも、老人特有のこの淡々とした心の動きはわかるような気がする。なお「隙間なく」の「間」は、原文では門構えに「月」の字が使われている。『鏡騒(かがみざい)』(2010)所収。(清水哲男)


November 07112010

 予備校の百の自転車冬に入る

                           長島八千代

は今年とうとう60歳になってしまいましたが、若いころに想像していた60歳とはずいぶん感じが違います。言うまでもなく時は切れ目なく流れてきており、しかし古いものから過去が遠ざかってゆくというわけではありません。未だに何十年も昔の、学生のころの夢をみてうなされることがあります。一生の体験のうち、記憶に残りそうなことは、ほとんど成人前にかたよっているように思われます。あるいは、若いころは生きることにまだ新鮮な精神を持っており、それゆえにちょっとしたことでも鮮明に覚えてしまうのかもしれません。本日は立冬。この歳になってみれば単に季節の変わり目に過ぎませんが、来年受験をひかえている学生にとっては、特別な意味を持っています。ああもう冬になってしまったか、まだ受験の準備は進んでいないのにと、ほとんどの受験生はあせりを感じるころです。予備校にとめられている自転車の数だけ、そんなあせりを運んできたものと思えば、なんだかサドルの群れに、小声でエールを送ってあげたくもなります。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 06112010

 あたたかく靄のこめたる紅葉かな

                           深川正一郎

よりやや視界がよいのが靄、ということだが、霧は走るけれど靄は走らない、とも思う。この句の場合、山一面の紅葉が朝靄に覆われているのかもしれない。が、私には、湖の対岸にくっきりと見えていた一本の鮮やかな紅葉に今朝はうっすらと靄がかかっている、という景色がなんとなく浮かんだ。そこに朝日が差しこんでくると、湖面はかすかな風を映して漣が立ちはじめ、紅葉の彩をやわらかくつつんでいた靄はしだいに薄れていく。あたたかな靄の晴れてゆく湖畔で、作者は行く秋を惜しんでいるのかもしれない。『正一郎句集』(1948)は、川端龍子の装丁がしっとりとした作者の第一句集。四季別にまとめられているがその扉の、春、夏、秋、冬、の文字だけが水色で美しい。(今井肖子)




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