今日「立冬」。北国ならともかく、どうもピンと来ないなあ。(哲




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November 07112010

 予備校の百の自転車冬に入る

                           長島八千代

は今年とうとう60歳になってしまいましたが、若いころに想像していた60歳とはずいぶん感じが違います。言うまでもなく時は切れ目なく流れてきており、しかし古いものから過去が遠ざかってゆくというわけではありません。未だに何十年も昔の、学生のころの夢をみてうなされることがあります。一生の体験のうち、記憶に残りそうなことは、ほとんど成人前にかたよっているように思われます。あるいは、若いころは生きることにまだ新鮮な精神を持っており、それゆえにちょっとしたことでも鮮明に覚えてしまうのかもしれません。本日は立冬。この歳になってみれば単に季節の変わり目に過ぎませんが、来年受験をひかえている学生にとっては、特別な意味を持っています。ああもう冬になってしまったか、まだ受験の準備は進んでいないのにと、ほとんどの受験生はあせりを感じるころです。予備校にとめられている自転車の数だけ、そんなあせりを運んできたものと思えば、なんだかサドルの群れに、小声でエールを送ってあげたくもなります。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 06112010

 あたたかく靄のこめたる紅葉かな

                           深川正一郎

よりやや視界がよいのが靄、ということだが、霧は走るけれど靄は走らない、とも思う。この句の場合、山一面の紅葉が朝靄に覆われているのかもしれない。が、私には、湖の対岸にくっきりと見えていた一本の鮮やかな紅葉に今朝はうっすらと靄がかかっている、という景色がなんとなく浮かんだ。そこに朝日が差しこんでくると、湖面はかすかな風を映して漣が立ちはじめ、紅葉の彩をやわらかくつつんでいた靄はしだいに薄れていく。あたたかな靄の晴れてゆく湖畔で、作者は行く秋を惜しんでいるのかもしれない。『正一郎句集』(1948)は、川端龍子の装丁がしっとりとした作者の第一句集。四季別にまとめられているがその扉の、春、夏、秋、冬、の文字だけが水色で美しい。(今井肖子)


November 05112010

 龍の玉独りよがりは生き生きと

                           瀧澤宏司

の玉のあの小さな美しい紫の玉に独りよがりの生き方を喩えている。或いは龍の玉で深い切れを想定するなら、龍の玉の前で、そこにいる「私」や人間の独りよがりの生き方を思っている。どちらにしてもここには独りよがりということに対する肯定がある。俳句に自分にしか感じ得ない、自分にしか見えない何事かを表現するという態度こそ表現者の態度だというと、時に、私はそこまで俳句に期待しませんという反応が返ってくる。俳句は誰のものでもないのだからいろいろな考え方があっていい。みんなが感じたのと同じことを感じるという安堵感を表現したいひとには類型感など取るに足らぬ問題だろう。自分だけのものを得ようとする創作は荒野に独り踏み出すようなものでそこに歓喜も絶望も存する。この句の作者はその両者を知ってしまった人だ。『諠(よしみ)』(2010)所収。(今井 聖)




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