ここ一年間は風邪を引いていない。そろそろかな、用心用心。(哲




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October 28102010

 病院の廊下の果てに夜の岬

                           澤 好摩

い先日、病院の廊下に置かれた長椅子に座って順番待ちをしていたら、忘れていた記憶が次々とめぐってきた。思えば何人もの近親者を病院で見送っている。自分自身の入院もそうだけど、病院にいい思い出はない。朝の検温から始まって、抑揚のない一日が過ぎ、早い夕食が終わるとあっという間に消灯時間になってしまう。横たわって天井を見るしかない病人に長い長い夜が始まる。夏であろうと冬であろうと一定の温度に管理された空調と白い壁に閉ざされた病院に季節はない。暗い蛍光灯に照らしだされた廊下の果てには真っ暗な夜が嵌めこまれた窓がある。外へ出てゆくのも儘ならぬ身体で歩いてゆけば廊下は岬のように夜に突き出してゆくのかもしれぬ。季語のないこの句には「病院」が抱える時間と空間が濃密に感じられる。日常の世界と違う病院の内部を貫く廊下の延長線上に岬を想う感覚の鋭さが病院にいる不安と孤独を際立たせるのだ。『澤好摩句集』(2009)所収。(三宅やよい)


October 27102010

 寺の前で逢はうよ柿をふところに

                           佐藤惣之助

この寺の前で、何の用があって、いったい誰と「逢はう」というのか――。「逢はうよ」というのだから、相手は単なる遊び仲間とか子どもでないことは明解。田舎の若い男女のしのび逢いであろう(「デート」などというつまらない言葉はまだ発明されていなかった)。しかも柿という身近なものを、お宝のように大事にふところにしのばせて逢おうというのだ。その純朴さがなんともほほえましい。同時にそんなよき時代があったということでもある。これから、あまり人目のつかない寺の境内のどこかに二人は腰を下ろして、さて、柿をかじりながら淡い恋でも語り合おうというのだろうか。しゃれた喫茶店の片隅で、コーヒーかジュースでも飲みながら……という設定とはだいぶ時代がちがう。大正か昭和の10年代くらいの光景であろう。ふところは匕首のようなけしからんものも、柿やお菓子のような穏やかなものもひそむ、ぬくもった不思議な闇だった。掲句の場合の柿は小道具であり、その品種まで問うのは野暮。甘い柿ということだけでいい。柿の品種は現在、甘柿渋柿で1000種以上あるという。惣之助は佐藤紅緑の門下で、酔花と号したことがあり、俳誌「とくさ」に所属した。句集に『螢蠅盧句集』と『春羽織』があり、二人句集、三人句集などもある。他に「きりぎりす青き舌打ちしたりけり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 26102010

 日おもてに釣船草の帆の静か

                           上田日差子

釣船草
細い茎からモビールのように下がる花が船のかたちに見えるということから釣船草という名がついたという。先日、姨捨の棚田を歩いたおり、日当りのよい斜面にキツリフネが一面に咲いていた。花を支える茎があまりに細いため、強い風が吹いたら、ちぎれてしまうのではないかという風情は、壊れやすい玩具のように見える。また、あやういバランスであることが一層あたりの静けさを引き寄せていた。掲句の景色は、日射しのさざ波に浮く船溜まりのように、釣船草の立てた華奢な帆になによりの静寂を感じているのだろう。花の魅力は後方にもある。写真を見ていただければわかるが、どの花にもくるんとしたくせっ毛みたいな部分があって、これが可愛くてしかたがない。種は鳳仙花のように四散するという。静かな花の最後にはじけるような賑やかさがあることに、ほんの少しほっとする。〈寒暮かな人の凭る木と凭らぬ木と〉〈囀りの一樹ふるへてゐたるかな〉『和音』(2010)所収。(土肥あき子)




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