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2010ソスN10ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 21102010

 とうさんの決して沸騰しない水

                           久保田紺

うさんの中にある水って何だろう。とうさんをこう定義しているぐらいだから、かあさんにも、ねえさんの内部にも水はあって、それはぐらぐらと沸騰したり、体内を忙しく駆け巡ったり、身の裡から溢れだしたりするのかもしれない。川柳は前句付から発展した詩型だから、発想の手掛かりとなる題がどこかに隠されているのだろう。その隠されたものを読み手が自分に惹きつけてあれこれと考えをめぐらすのが、句を読み解くことにつながるように思う。俳句は句を味わう、とよく言うが題ならずとも求心力として季語の存在は大きい。鑑賞においても川柳と俳句では違いがある。この句の場合、隠されているのは「かなしみ」や「怒り」といった感情や「死」や「離別」など人生で否応なく遭遇する事件へのとうさんの反応かもしれない。沸騰しないかわりに沈黙の咽喉元へ水はせりあがってきているのだ。同じ17音の韻律ではあるが、川柳は俳句とは違う言葉の働かせ方を見せてくれる。『銀色の楽園』(2008)所収。(三宅やよい)


October 20102010

 時計屋の主人死にしや木の実雨

                           高橋順子

の季語「木の実」には、「木の実時雨」「木の実独楽」「万(よろづ)木の実」など、いかにも情緒を感じさせる傍題がいくつかある。掲句の「木の実雨」も傍題の一つ。まあ、木の実と言っても、一般にはどんぐりのたぐいのことを言うわけだろうけれど、どこか懐かしい響きをもつ季語である。たまたま知り合いか、または近所に住む時計屋の主人なのか、彼が亡くなったらしいのだけれど、コツコツコツコツとマメに時を刻む時計、それらを扱う店の主人の死は、あたかも時計がピタリと止まったかのような感じに重なって、妙に符合する。木の実が落ちる寂しい日に、時計屋のおやじは死んだのかもしれない、と作者は推察している。そこにはシイーンとした静けさだけが広がっているように思われる。「死にしや」という素っ気ない表現が、黙々と働いていたであろう時計屋の主人の死には、むしろふさわしいように思われる。俳句を長いことたしなんでいる順子の俳号は泣魚。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけでやる「駄木句会」で長吉から○をもらった七十余句が、「泣魚集」として順子のエッセイ集『博奕好き』(1998)巻末に収められている。そこからの一句をここに選んだ。他の句には「柿の実のごとき夕日を胸に持つ」や「春の川わたれば春の人となる」などがある。(八木忠栄)


October 19102010

 アクセル全開秋愁を振り切りぬ

                           能村研三

つもはごく温厚な人がハンドルを握ると、とたんに性格が変貌し大胆になるというタイプがあるらしい。常にないスピード感やひとりだけの空間が心を解放させるのだろう。掲句が荒っぽい運転とは限らないが、どこかいつもとは違う攻めの姿勢を感じさせる。秋の心と書く「愁」が嘆きや悲しみを意味させるのに対し、春の心と書く「惷」には乱れや愚かという意味となる。それぞれの季節に芽生える鬱々とした気分ではあるが、春は軽はずみなあやまちを招くような心を感じさせ、一方、秋の気鬱は全身に覆いかぶさるような憂いを思わせる。常にない向こう見ずなことをしなければ、到底振り切ることなどできない秋愁である。猛スピードで振り切った秋愁のかたまりをバックミラーの片隅に確認したのちは、わずかにスピードをゆるめ軽快な音楽に包まれている作者の姿が浮かぶのだった。〈男には肩の稜線雪来るか〉〈里に降りる熊を促へし稲びかり〉『肩の稜線』(2010)所収。(土肥あき子)




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