神代植物公園「秋のバラフェスタ」。天気がいまいちで残念。(哲




2010ソスN10ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 20102010

 時計屋の主人死にしや木の実雨

                           高橋順子

の季語「木の実」には、「木の実時雨」「木の実独楽」「万(よろづ)木の実」など、いかにも情緒を感じさせる傍題がいくつかある。掲句の「木の実雨」も傍題の一つ。まあ、木の実と言っても、一般にはどんぐりのたぐいのことを言うわけだろうけれど、どこか懐かしい響きをもつ季語である。たまたま知り合いか、または近所に住む時計屋の主人なのか、彼が亡くなったらしいのだけれど、コツコツコツコツとマメに時を刻む時計、それらを扱う店の主人の死は、あたかも時計がピタリと止まったかのような感じに重なって、妙に符合する。木の実が落ちる寂しい日に、時計屋のおやじは死んだのかもしれない、と作者は推察している。そこにはシイーンとした静けさだけが広がっているように思われる。「死にしや」という素っ気ない表現が、黙々と働いていたであろう時計屋の主人の死には、むしろふさわしいように思われる。俳句を長いことたしなんでいる順子の俳号は泣魚。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけでやる「駄木句会」で長吉から○をもらった七十余句が、「泣魚集」として順子のエッセイ集『博奕好き』(1998)巻末に収められている。そこからの一句をここに選んだ。他の句には「柿の実のごとき夕日を胸に持つ」や「春の川わたれば春の人となる」などがある。(八木忠栄)


October 19102010

 アクセル全開秋愁を振り切りぬ

                           能村研三

つもはごく温厚な人がハンドルを握ると、とたんに性格が変貌し大胆になるというタイプがあるらしい。常にないスピード感やひとりだけの空間が心を解放させるのだろう。掲句が荒っぽい運転とは限らないが、どこかいつもとは違う攻めの姿勢を感じさせる。秋の心と書く「愁」が嘆きや悲しみを意味させるのに対し、春の心と書く「惷」には乱れや愚かという意味となる。それぞれの季節に芽生える鬱々とした気分ではあるが、春は軽はずみなあやまちを招くような心を感じさせ、一方、秋の気鬱は全身に覆いかぶさるような憂いを思わせる。常にない向こう見ずなことをしなければ、到底振り切ることなどできない秋愁である。猛スピードで振り切った秋愁のかたまりをバックミラーの片隅に確認したのちは、わずかにスピードをゆるめ軽快な音楽に包まれている作者の姿が浮かぶのだった。〈男には肩の稜線雪来るか〉〈里に降りる熊を促へし稲びかり〉『肩の稜線』(2010)所収。(土肥あき子)


October 18102010

 芋茎みな捨ててあるなり貸農園

                           吉武靖子

会の貸農園が人気だ。自治体などが貸し出すと、あっという間に借り手が殺到するという。趣味で作物を育てるのは、職業としての農業とは違って楽しいのだろうな。もっとも農家の子供だった私には、趣味といえどもきちんと育てるには、たいへんな作業があることを知っているので、借りる気になったことは一度もない。作者の心持ちは「ああ、もったいない。食べられるのに……。知らないのだろうか」といったところだろう。でも、里芋の葉柄である芋茎(ずいき)は、食べてそんなに美味いものじゃないというのが私の記憶。いまどきの都会人で口に合う人が、そんなにいるとも思えない。だから捨ててしまうのだと私などは思ってしまうが、おそらくかつての食糧難を体験したのであろう作者には、そうは考えられないのである。いずれにしても、畑の片隅に積み上げられた芋茎の姿は汚いし、無惨といえば無惨だ。が、無惨もときには風物詩になるということ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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