今週後半から来週にかけて締切がぎっしり。安請け合いの罰也。(哲




2010ソスN10ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 17102010

 波音は岸に集まり秋の風

                           稲田秋央

日の句を読んでいると、これだけあたりまえの言葉だけをつかっても、優れた句はできるものなのだなと、感心してしまいます。「波音」「岸」「秋」「風」という、さんざん句に詠まれてきた単語も、「集まり」という、これも珍しくはない単語によって見事に生き返っています。もしここに、「集まり」以外の単語が入ったとしたら、おそらくこれほど情感の深い句にはならなかったのではないかと思われます。文芸というのは、一語たりともおろそかにはできないものだと、改めて教えられるようです。波の、繰り返し打ち寄せてくる動きが、音さえもこちらに流れついているのだと感じることの美しさ。さらに、岸に集まったものは、静かに手で掬えそうな心持にもなってきます。秋の冷たい風に吹かれながら、てのひらいっぱいに掬った波音を見つめながら、これまでの人生に思いをはせるのは、秋という季節をおいてありえません。『俳句入門三十三講』(2003・講談社)所載。(松下育男)


October 16102010

 虫の夜のコップは水に沈みをり

                           飯田 晴

元の「安野光雅の画集」(1977・講談社)に、「コップへの不可能な接近」(谷川俊太郎)という詩の抜粋が載っている。そこに「それは直立した凹みである」という一行があるのだが、テーブルに置かれた空のコップを見てなるほどと思った。そこに水を注ぐと、あたりまえだけれど水はきちんとコップにおさまり、コップは水を包み守りながら直立し続ける。そんなコップが一日の役目を終え、台所の流しに浸けられている。透明な水がそのうちそとを満たし、力のぬけたコップをいまは水が包んでいるようだ。ひたすらな虫の夜に包まれている作者、夜の厨の風景が虫の音を静かに際立たせている。『たんぽぽ生活』(2010)所収。(今井肖子)


October 15102010

 攫はれるほどの子ならず七五三

                           亀田虎童子

はれるという表現は、歴史的仮名遣いであって現代文法。意識的に口語調を用いたため、こういう折衷の組合わせを採用したのだろう。攫われるほどの子ではないというのは自分の子に対する謙遜だ。学校という現場にいるとだんだん自分の子に対する謙遜が減ってきているのを実感する。自分の子の利益だけを要求するモンスターペアレントと呼ばれる親たちは年々増えてきている。自分のこと身内のことはどんなに謙遜してもいい気がする。愚生、愚息、愚妻といって、ああそうですか愚かな方なんですねと思う人はいない。むしろ逆の印象もある。この子、きっと優秀な子に違いない。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)




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