あっ、まだ国勢調査に記入してなかった。今日にはかならず…。(哲




2010ソスN10ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 04102010

 寝ころべば鳥の腹みえ秋の風

                           大木あまり

の発見は単純だが新鮮だ。もちろん、寝ころばなくても鳥の腹は見える。いや、鳥は人間の目の位置よりも高いところを飛ぶので、いつだって私たちには鳥の腹が見えている。……というのは、しかし実は理屈なのであって、普通に立って鳥の飛ぶさまを見ているときには、私たちには鳥の腹は見えているのだが見てはいない。あらかじめ鳥の形状は知識として頭に入っているので、実際には見えていなくても、よくは見えない頭や尾や翼の形を補完して全体像を見ているような錯覚にとらわれているからだ。そういうふうに、私たちの視覚はできている。だが、寝ころんで鳥を真下から見上げてみると、さすがにいやでも腹がいちばんよく見える部分になるために、補完作業は後退してしまう。そのことをすっと書き留めたところが、作者の手柄である。爽やかな秋風の吹く野にある解放感が、この発見によってそれこそ補完されている。昨日の松下育男の言葉を借りれば、「創作というのは、多くの解説によって複雑に説明されるものがよいとも限らないのだなと、この句を読んでいると改めて認識させられ」ることになった。『星涼』(2010)所収。(清水哲男)


October 03102010

 われをつれて我影帰る月夜かな

                           山口素堂

の句の意味は説明するまでもありません。また、どういった思考経路によってこの句が生み出されてきたのかも、明瞭です。自分についてくる影と、自分の立場を、単純に逆転しただけの作品です。しかし、解説すれば単にそれだけのものでも、作品が持つ力は意外に強く読者に迫ってきます。あたりまえの逆転でも、読めばふっと驚いてしまうし、色の濃い影が実体をひきずってとぼとぼと帰宅する様子は、視覚的にも印象的なものです。創作というのは、多くの解説によって複雑に説明されるものがよいとも限らないのだなと、この句を読んでいると改めて認識させられます。ありふれた発想から生まれた句が、かならずしもありふれた句にはならない、ということのようです。実体を覆すほどの描写は、おそらくこれからも、あたりまえの思考経路から出来てくるのでしょう。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 02102010

 にせものときまりし壺の夜長かな

                           木下夕爾

の長さを思うのは静かな時間だろう、一人かせいぜい二人か。虫の声が聞こえたり月が出ていたりする中、ぼんやりしたりしんみりしたり読書したり酌みかわしたり、というところか。この句とは『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)で出会ったのだが、なんともいえない夜長である。中七の、きまりし、の一語にリアリティがあり、壺の、で軽く切れて、夜長かな、へ向かって溜息がひとつ。暗く長い夜は、偽物の壺と、似せものを作ることしかできなかったこの壺の作り手にも幾たびも訪れたことだろう。そして、あやしいと思っていたけどやはりなあ、と溜息をつきながらも、作者はこの壺をきっと捨てられない、そんな気がする。(今井肖子)




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