来週は珍しく原稿の締め切りが三件。早く手をつけねば…。(哲




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October 02102010

 にせものときまりし壺の夜長かな

                           木下夕爾

の長さを思うのは静かな時間だろう、一人かせいぜい二人か。虫の声が聞こえたり月が出ていたりする中、ぼんやりしたりしんみりしたり読書したり酌みかわしたり、というところか。この句とは『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)で出会ったのだが、なんともいえない夜長である。中七の、きまりし、の一語にリアリティがあり、壺の、で軽く切れて、夜長かな、へ向かって溜息がひとつ。暗く長い夜は、偽物の壺と、似せものを作ることしかできなかったこの壺の作り手にも幾たびも訪れたことだろう。そして、あやしいと思っていたけどやはりなあ、と溜息をつきながらも、作者はこの壺をきっと捨てられない、そんな気がする。(今井肖子)


October 01102010

 匂はねばもう木犀を忘れたる

                           金田咲子

ういうのを実存傾向とでもいおうか。僕など加藤楸邨の体臭を感じてしまうがそれは個人的なこと。人は五感によって生を体感して生きている。ここにあるのは嗅覚の強調。木犀は見えてはいるのだが、匂わない限りは見えてはいても見られることはない。存在に気づかれることはないのだ。俳句は往々にしてここから箴言に入る。たとえば、個性を発揮していないと忘れられがちであるというふうに。そうすると木犀自体のあの甘いナマの匂いの実感が薄れてしまう。言葉通りまず実感を十分に味読してから箴言でもどこへでも飛べばいい。その順序が大切。『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)


September 3092010

 どこまでも雨の背高泡立草

                           小西昭夫

かし国鉄と呼んでいた頃、線路脇に延々とこの雑草が茂っていた。濁った黄色の花を三角に突き立てる姿は、荒々しいばかりでちっとも好きじゃなかった。戦後進駐軍が持ち込み、爆発的に広がったという話を耳にしたことがある。今住んでいる関東近辺ではあまり見かけないが、他ではどうなのだろう。カタカナの語感で呼びならしていたこの雑草も漢字で書くと、猛々しさが消え淡く優しい秋草の雰囲気を醸し出すようだ。「どこまでも」が降り続く雨と群生する植物の両方にかかりあてどない寂しさを感じさせる。「背高泡立草」は降りしきる雨に人の群れのように立ちつくしているのだろう。それにしても晴れれば照りつけ、降ればどしゃ降りの最近の天候には可憐な表記ではなく「セイタカアワダチソウ」が似合いかもしれない。『小西昭夫句集』(2010)所収。(三宅やよい)




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