夢の中の私は何歳くらいなのか。幼児でも老人でもないのは確か。(哲




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September 2792010

 日本がすつぽり入る秋の暮

                           後藤信雄

の句に抒情を感じるか否か。それは読者の年代によって分かれるところだろう。言っていることは、たとえば『百人一首』にある「寂しさに宿を立ち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮」(良暹法師)に通じている。「日本中いずこも」秋の夕暮なのである。ただ両者が決定的に異なるのは、夕暮を眺める視点である。良暹法師は水平的に見ており、句の作者は俯瞰的に見ている。俯瞰的に景色などを眺める感覚は、この一世紀くらいの間に目覚ましく開発されてきた。言うまでもなく、それは人間の俯瞰能力や想像力が飛行機の発達や衛星の登場によって進化してきたからだ。飛行機のなかった時代の人は、せいぜいが鳥の目を想像するくらいでしかなかったけれど、今では「地球は青かった」と誰もが言える時代である。とはいえ、青い地球を理屈としてではなくそのまま自分の感性に取りこむ能力は、私などよりもずっと若い世代に属しているのだと思う。だから、そんな若い読者がこの句に良暹法師のような抒情を感じたとしても不思議ではない。作者の意図はどうであれ、この句をまず理屈として受けとってしまう世代の感性の限界を、少なくとも私は感じてしまった。『冬木町』(2010)所収。(清水哲男)


September 2692010

 夫と来てはなればなれに美術展

                           龍神悠紀子

そらくこの夫婦は、新婚まもなくではなく、結婚してからかなりの月日を過ごした後なでしょう。私自身のことを考えても、結婚前のデートでは、彼女を誘ってしばしばしゃれた美術館へ、見たこともない画家の絵を無理して観に行ったことはあります。しかし、いったんその人と結婚してしまえば、子育てだ、住宅ローンだ、子供の受験だと、次々にやって来る出来事の波を乗り切るのが精一杯で、妻とゆっくりと美術展に行ったことなど思い出せません。子供が大きくなり、手を離れてから、ふっとできた時間の中で、夫婦の足は再びこのようなところへ向くようになるのでしょう。それでも独身時代とは違って、一緒に並んで観て回るなんて、余計な気を遣う必要はもうないのです。絵がつまらないと思えばさっさと次の展示物へ行ってしまうし、あるいは妻が先へ行ったところで、自分がじっくり観たいものはそれなりに時間をかけて観ることができるわけです。ああ、こんなふうに二人ではなればなれになることもできるのだなと、それまでの時間の重なりのあたたかさを、絵とともに見つめることができるのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 2592010

 秋暑しすこやかなればめぐり合ひ

                           松本つや女

の句の前に〈夕顔に病み臥す人と物語〉〈堂縁に伏して物書く秋の風〉と続いている。いずれも、夫たかしを詠んでいるのだろう。一句目の物語、二句目の秋の風、共に過ごす時間に同じ風が吹いている。終生病弱であったたかし、病が進んでも衰えた様子を見せるのを嫌い、つや女にも、取り乱すことの無いようにと常々言っていたという。貴公子、と呼ばれたたかしだが、長く身の回りの世話をし、やがて一緒になったつや女には素顔のたかしが見えていたのだろう。残暑より少し秋の色合いの強い、秋暑し。まだ暑いながら時に秋風も立つ。この夏もなんとかのりきったなと一息つきながら、一瞬過去へ思いが巡ったのだろう。すこやか、の一語から、こめるともなくこもる思いが伝わってくる。『現代俳句全集 第一巻』(1953・創元社)所載。(今井肖子)




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