どこのお祭りでもお面が売られているが買う人いるのかしらん。(哲




2010ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1992010

 まげものを洗へばひかる秋の水

                           小池文子

社の昼休みに、人事のことなどで悩みながら歩いていると、街中の看板に目を奪われることがあります。「てびねりの楽しさ」と書いてある「てびねり」とは何だろうと、その看板を目にするたびに思います。でも会社に戻れば、待っている仕事に追われて、そんなことはすぐに忘れてしまうのです。もっとも、「てびねり」がどのような意味をもっていようと、わたしにはそれほどに興味がないのです。惹かれているのは、その語のたたずまいなのです。語は、すっとわたしの中に入ってきて、頭の中をきれいに冷やしてくれます。本日の句にも、同じような感想を持ちました。「まげもの」という言葉の響きのおおらかさに、なんだかあらゆるものの心が、素直に背中を曲げてくつろいでゆくような気持ちがします。ネットで調べれば「まげもの」とは、「檜(ひのき)・杉などの薄い板を円筒形に曲げ、桜や樺(かば)の皮でとじ合わせ、これに底をつけて作った容器。わげもの。」とあります。洗って光るまげものの曲線にそって、流れてゆく次の季節に、だれもがうっとりと見とれてしまいます。『合本 俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 1892010

 虫売の鼻とがりつゝ灯にさらす

                           杉山岳陽

暑日が続いていたが、虫が鳴きだしたのは早かったように思う。虫売は文字通り虫を売ることを商売にする人のこと。この句を読んで、以前見た浮世絵を思い出した。後ろに虫籠がたくさん吊してあり、手前に大きく虫売の顔が描かれているのだが、長い顔に細い鼻でなんだか怒っているような悲しいような顔をしていたように思う、まあ浮世絵顔ということかもしれないが。勝手な言いぐさだけれど、虫売に太った人はいなかった気がする、昔見かけたひよこ売りのおじさんもしかり。灯にさらされたとがった鼻は、生きているものを売る、という商売のうっすらとした影を感じさせる。『図説俳句大歳時記 秋』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


September 1792010

 秋の夜のラジオの長き黙つづく

                           山口誓子

んな句を昭和19年に作ることができた誓子の頭の中はどういうことになっていたのか。型の上のホトトギス調はない。ここには文語か口語かの識別の表現はない。季語はあるが秋の夜の定番情緒がテーマに置かれているわけではない。いわゆる従来の俳句的情緒も皆無。それでいて昭和初期の現代詩を模倣したモダニズムもない。ベレー帽などかぶったモボ、モガのダンディズムが見られない。ここで見出されている「詩」は完全に誓子が初めて俳句にもたらしたものだ。新しいポエジーなのに難解さは無い。ああ、こんなことが俳句で言えたのだと、言われてみると簡単なことのように思える。誰も出来なかった「簡単」なこと。まさしく当時の俳句の最前線に立った誓子のポエジーは今でも最前線のままだ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)




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