おっ、三連休か。天気も良さそうだし、混む所は混むだろうな。(哲




2010ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892010

 虫売の鼻とがりつゝ灯にさらす

                           杉山岳陽

暑日が続いていたが、虫が鳴きだしたのは早かったように思う。虫売は文字通り虫を売ることを商売にする人のこと。この句を読んで、以前見た浮世絵を思い出した。後ろに虫籠がたくさん吊してあり、手前に大きく虫売の顔が描かれているのだが、長い顔に細い鼻でなんだか怒っているような悲しいような顔をしていたように思う、まあ浮世絵顔ということかもしれないが。勝手な言いぐさだけれど、虫売に太った人はいなかった気がする、昔見かけたひよこ売りのおじさんもしかり。灯にさらされたとがった鼻は、生きているものを売る、という商売のうっすらとした影を感じさせる。『図説俳句大歳時記 秋』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


September 1792010

 秋の夜のラジオの長き黙つづく

                           山口誓子

んな句を昭和19年に作ることができた誓子の頭の中はどういうことになっていたのか。型の上のホトトギス調はない。ここには文語か口語かの識別の表現はない。季語はあるが秋の夜の定番情緒がテーマに置かれているわけではない。いわゆる従来の俳句的情緒も皆無。それでいて昭和初期の現代詩を模倣したモダニズムもない。ベレー帽などかぶったモボ、モガのダンディズムが見られない。ここで見出されている「詩」は完全に誓子が初めて俳句にもたらしたものだ。新しいポエジーなのに難解さは無い。ああ、こんなことが俳句で言えたのだと、言われてみると簡単なことのように思える。誰も出来なかった「簡単」なこと。まさしく当時の俳句の最前線に立った誓子のポエジーは今でも最前線のままだ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


September 1692010

 新しく忘れるために秋の椅子

                           窪田せつこ

いぶ前の新聞で「知らない事と忘れたという事は違う。忘れることなんか気にしないでただ覚えればいい。そもそも生まれた時からのことをみんな覚えていたら頭がどうかなってしまう」といった言葉が目にとまった。内田百ケン(ケンの表記は門構えに月)だったと思う。もっともこれは学問に関する教えで、砂時計の砂がこぼれおちるように読んだそばから内容を忘れ、薬缶を火にかけていることを忘れ、とりかかろうとしていた用事を忘れてしまう私などとはちょっと事情が違うかもしれない。掲句では「忘れる」不安を一歩進めて、「新しく忘れるために」と言い切ったところがいい。覚えたこともいずれちりちりになってしまうのだから、そんなことは気にせずに椅子に座っておしゃべりをし、本でも読みましょうよ。と、さっぱりした心持ちが秋の爽やかさに通じる。ようやく気温も落ち着いてきて本格的な秋がやってくる。さて新しく忘れるためにお気に入りの椅子に腰かけ図書館で借りてきた本でも広げてみようか。『風』(2009)所収。(三宅やよい)




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