川越の実家に行ってから父の病院へ。涼しいと助かるのだが。(哲




2010ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592010

 横町に横町のあり秋の風

                           渋沢秀雄

っとこさ秋風が感じられる季節にたどりついた。秋風は町ではまず大きな通りを吹き抜けて行く。つづいて大通りから入った横町へ走りこみ、さらに横町と横町を結ぶ小路や抜け裏へとこまやかに走りこんで行く。横町につながる横町もあって、風は町内に隈なく秋を告げてまわるだろう。あれほど暑かった夏もウソのように過ぎ去って、横町では誰もが涼しい風を受け入れて、「ようやく秋だねえ」「秋になったなあ。さて…」と今さらのように一息入れて、横町から横町へと連なるわが町内を改めて実感しているだろう。味も素っ気もない大通りではなく、横町が細かく入りくんでいる町の、人間臭い秋の風情へと想像は広がる。落語の世界ではないが、やはりご隠居さんは大通りではなく横町に住んでこそ、サマになるというものである。裏長屋から八つぁん熊さんが、風に転がるようにして飛び出してきそうでもある。秋風が横町と横町をつなぐだけでなく、そこに住む人と人をもつないで行く。秀雄は「渋亭」の俳号をもち、徳川夢声、秦豊吉らと「いとう句会」のメンバーだった。他に「北風の吹くだけ吹きし星の冴え」「うすらひに水鳥の水尾きてゆるゝ」等がある。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


September 1492010

 なみなみと大きく一つ芋の露

                           岩田由美

の露とは、七夕の朝、里芋の葉の露を集めて墨をすり、短冊に願いを書くと美しい文字が書けるようになるという故事からなるが、飯田蛇笏の〈芋の露連山影を正しうす〉以降、写生句として扱われることの方が多くなった。それでも「露」が背景に色濃く持つ、はかなく変化の多い世という嘆きが、芋の露に限って薄まるのは、つややかな里芋の葉に溌剌とした大粒の露がころんと転がる姿に、健康的な美しさを見出すからだろう。里芋の葉の表面にはごく細かなぶつぶつがあり、これにより超撥水性と呼ばれる効果を発揮する。水滴は球体でありながら葉にはぴったりと吸い付いて、なかなかこぼれ落ちないという不思議な仕組みがあるらしい。そしてなにより、いかにも持ちやすそうな茎の先に広がるかたちは、トトロやコロボックルたちの傘や雨宿り場所としても定番であったことから、どこか懐かしく、童話的な空気が漂う。句集のなかの掲句は〈追ひあうて一つになりぬ芋の露〉につづき、きらきらとした露の世界を広げている。芋の葉の真ん中に収まる露は、未来を占う水晶玉のごとく、朝の一番美しいひとときを映し出していることだろう。『花束』(2010)所収。(土肥あき子)


September 1392010

 椎茸を炙っただけの夫婦かな

                           塩見恵介

卓の様子は、家庭ごとにかなり異なる。日頃は自分の家のそれはごく普通だと思っているけれど、たまに気の置けない他家を訪れたりすると、そのことがよくわかる。だから、どんな家での日常的な食卓のレポートでも、そのままその家の家族のありようや流儀などを鮮やかに告げてくれる。テレビドラマで食卓のシーンが多いのも、そのせいだろう。あれこれ説明するよりも、食卓さえ写しておけばかなりのことがわかるからである。掲句も同様で、炙っただけの椎茸という料理とも言えない料理を前にして、べつだん気にしている様子もない夫婦の姿だ。良い夫婦像かどうかなどということは読み手の判断にまかされているが、作者はそんなことよりも、あらためてこの食卓を見つめてみることにより、自分たち夫婦の関係が理解できたと思っているわけだ。新婚時の祝祭のような料理から炙っただけの椎茸に至るまでの短くはない夫婦の歴史が、皿の上の数片の椎茸によって一撃で語られているのである。俳誌「船団」(第86号・2010年9月刊)所載。(清水哲男)




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