秋祭りの季節。町内会に入っていないので他人事みたいだが。(哲




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September 0892010

 秋風や人なき道の草の丈

                           芥川龍之介

正九年、二十八歳のときの作。詞書に「大地茫茫愁殺人」とある。「愁殺(しゅうさい)人」とは、甚だしく人を悲しませるという意味である。先々週水曜日の本欄で初秋の風の句(平賀源内)をとりあげたが、掲句の風はもっと秋色を濃厚にしている時季である。寒いくらいの秋風が吹いている道だから、人通りも無いのだろう。ただ道ばたの雑草が我がもの顔に丈高く繁って風に騒いでいるという、まさしく茫々たる景色である。どこか物悲しくもある。それはまた、やがて自死にいたる芥川のこころをその裏に潜ませていた、と早とちりしたくもなる句ではないか。(もっとも自死は七年後だった)そのように牽強付会ぬきにしても、いずれにせよ単に秋風の道のスケッチにとどまっていないのは確かであろう。八月に岩波文庫版『芥川竜之介俳句集』が刊行された。編者の加藤郁乎が解説で、「ぼくが死んだら句集を出しておくれよ」と芥川が言っていたことを紹介している。さらに、芥川が「俳壇のことなどはとんと知らず。又格別知らんとも思はず。(略)この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん乎」と書いていた言葉を紹介している。生前、確かに俳人たちとの接点はまだ少なかったようだが、「その俳気英邁を最初に認めた俳人は飯田蛇笏であろう」と郁乎氏。芥川には秋風を詠んだ句が目につく。「秋風や秤にかかる鯉の丈」「秋風や甲羅をあます膳の蟹」など。『芥川竜之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


September 0792010

 新涼や持てば生まるる筆の影

                           鷹羽狩行

象庁では2日、今年の夏を異常気象と発表した。異常気象とは「過去30年の観測に比して著しい偏りを示した天候」と定義されているという。尋常でないと公認された暑さではあるが、それでも夕方はめっきり早く訪れるようになり、朝夕には季節が移る用意ができたらしい風が通うようになった。先送りにしていたあれこれが気になりだすことこそ、ようやく人心地がついたということだろう。酷暑のなかでも日常生活はあるものの、要返信の手紙類は「とりあえず落ち着いたら…」の箱に仕分けられ、そろそろかなりの嵩になっている。掲句では、手紙の文面や、送る相手を思う前に、ふと筆の作る影に眼がとまる。真っ白な紙の上に伸びた影が、より目鼻のしっかりした秋を連れてくるように思える。書かねばならないという差し迫る気持ちの前で、ふと秋を察知したささやかな感動をかみしめている。やがて手元のやわらかな振動に従い、筆の影は静かに手紙の上を付いてまわることだろう。『十六夜』(2010)所収。(土肥あき子)


September 0692010

 落蝉に一枚の空ありしかな

                           落合水尾

生句ではない。作者の眼前には、落蝉もなければ空もない。「ありしかな」だから回想句かとも思われるが、それとも違う。小さな命の死と悠久の空一枚。現実の光景をデフォルメすれば、このような景色は存在するとも言えるけれど、作者の意図はおそらくそうした現実描写にはないだろう。強いて言えば、作者が訴えているのは、命のはかなさなどということを越えた「虚無」の世界そのもの提出ではなかろうか。感傷だとか慈しみだとか、そういった人情の揺らぎを越えて、この世界は厳然と展開し存在し動かせないものだと、作者は言いたいのだと思う。このニヒリズムを避けて通れる命はないし、そのことをいまさら嘆いてみても何もはじまらないのだ。私たちの生きている世界を何度でもここに立ち戻って認識し検証し、そのことから何事かを出発させるべきなのだ……。妙な言い方をするようだが、この句は老境に入りつつある作者の人生スローガンのようだと読んだ。『日々』(2010)所収。(清水哲男)




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