今週も暑そうだ。この暑さがおさまったら、どかんと冬が来そう。(哲




2010ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692010

 落蝉に一枚の空ありしかな

                           落合水尾

生句ではない。作者の眼前には、落蝉もなければ空もない。「ありしかな」だから回想句かとも思われるが、それとも違う。小さな命の死と悠久の空一枚。現実の光景をデフォルメすれば、このような景色は存在するとも言えるけれど、作者の意図はおそらくそうした現実描写にはないだろう。強いて言えば、作者が訴えているのは、命のはかなさなどということを越えた「虚無」の世界そのもの提出ではなかろうか。感傷だとか慈しみだとか、そういった人情の揺らぎを越えて、この世界は厳然と展開し存在し動かせないものだと、作者は言いたいのだと思う。このニヒリズムを避けて通れる命はないし、そのことをいまさら嘆いてみても何もはじまらないのだ。私たちの生きている世界を何度でもここに立ち戻って認識し検証し、そのことから何事かを出発させるべきなのだ……。妙な言い方をするようだが、この句は老境に入りつつある作者の人生スローガンのようだと読んだ。『日々』(2010)所収。(清水哲男)


September 0592010

 耳かきもつめたくなりぬ秋の風

                           地 角

かきを耳の中に入れる前には、当然耳かきを手で持つわけですから、ここで冷たいと感じたのは、耳かきを持った瞬間なのでしょうか。あるいは耳をかいている時に、冷え冷えとした季節の変わり目を感じたというのでしょうか。柴田宵曲もこの句について、「天地の秋が人工の微物に到ることを詠んだのである」と解説しているように、どこからかやってきた秋は、どんなに隠れた隅っこや小さな空き地をも見逃さずに、季節をびっしりと行き渡らせるようです。江戸期の句ですから、おそらく木製の耳かきなのでしょうが、冷たくなりぬという感覚は、金属製のものに、むしろ当てはまりそうです。寒くなるからさびしくなるのではなく、寒くなっただけなぜかうれしさがこみ上げてくる。変わる季節を迎えるたびに打ち震える胸の中にも、びっしりと秋は入り込んできます。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


September 0492010

 豊年や切手をのせて舌甘し

                           秋元不死男

こまで猛暑だと稲にもよくないのかと思いきや、今年は豊作なのだという。稲は冷夏には大きくダメージを受けるが暑さには強いそうだが、素人はそれにしても暑すぎたのでは、と心配してしまう。豊年、豊作、豊の秋、列車の旅をすると必ず目にする水田の風景。もっぱら食べるだけの身にもその喜びがしみじみ感じられる言葉だ。炊き立ての白いご飯をこんもり盛って、その湯気を両手に包むときの幸せ・・・もう今年米が出回り始めているし残ってるお米をさっさと食べようなどと考えながら、この句を読んで手元の切手をちょこっとなめてみた。切手の糊の原料は昔はデンプンだったが、今は化学的な成分になっているということで、甘さに敏感な舌先にも当然のことながら甘みは感じられない。でもそういえばちょっと甘かったこともあるような気がするなと思いながら、切手の舌ざわりと豊年がふとつながった瞬間を思い描いている。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)




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