炎暑の中を平気で駈けていく子供たち。私もあんなだったのか。(哲




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August 2582010

 秋風やうけ心よき旅衣

                           平賀源内

夕、そろそろ秋風の涼が感じられる…… そんな時季になってほしい。特に今年のように猛暑がつづいた後には、何よりも秋風を待ちこがれていた人も多いはず。一息入れて旅衣も新調して出発する身に、秋風は今さらのようにさわやかに快く感じられるのであろう。「うけ心」とはそういう心地を意味している。「秋風」と言っても、ここでは心地よさが感じられる初秋の頃の風である。汗だくになって日陰や涼を求めて動いていた人々の夏が、ウソのように感じられてくる日々。秋も深まった頃の風だと、ニュアンスはだいぶ違ってくる。よく知られているように、十八世紀にエレキテルばかりでなく幅広いジャンルで活躍したスーパースター源内は、ハイティーンの頃から二十年余俳諧にもひたり、俳紀行『有馬紀行』を著した。俳号は李山。「詩歌は屁の如し」という有名な言葉を残しているが、源内のようなマルチな“巨人”にとって、俳句をひねることなどまさしく屁をひるようなものであったかもしれない。いや、そうではなかったとしても、「屁の如し」と言い切るところに、源内らしさが窺われるというものである。他に「湯上りや世界の夏の先走り」という源内らしい句がよく知られている。磯辺勝氏はこう書く。「源内の意識のうえでの俳諧よりも、彼の文事、ひいては生き方そのものに、彼の本当の俳諧が露呈している」。磯辺勝『巨人たちの俳句』(2010)所載。(八木忠栄)


August 2482010

 八月のしずかな朝の出来事よ

                           鳴戸奈菜

本人にとって8月の持つ背景は深く重い。上五に置かれた「八月」の文字は、次の言葉を待つわずかな間にも胸を騒がせ、しくと痛ませる効果を持ってしまう。先の戦争がことに大きな影を落していることは確かだが、そこにとらわれ、身動きできなくなっているのではないかと、世界の8月の出来事を見渡してみた。すると、西暦79年の本日、ポンペイでは朝から不気味な地鳴りが続き、昼頃ヴェスヴィオ火山の大噴火によって消滅した日であった。この時節が持つやりきれなさと屈託は、もしかしたら全人類、世界的に共通しているのかもしれない。作品は〈山笑うきっと大きな喉仏〉〈あのおんな大の苦手と青大将〉の持ち前の明るくユニークな作品にはさまれ、饒舌のなかにおかれた静寂の一点でもあるように、ゆるぎない光りを放っている。俳誌「らん」(2010年・季刊「らん」創刊50号記念特別号)所載。(土肥あき子)


August 2382010

 校歌まだ歌えるふしぎ秋夕焼

                           渡邊禎子

れからの季節。大気が澄んでくるので、夕焼けもいっそう美しくなってくる。眺める気持ちも爽やかなので、作者は思わず歌をくちずさんでいたのだろう。いわゆる鼻歌に近い歌い方だ。しかし、気がつけばそれは何故か校歌だった。作者の年齢はわからないけれど、若い人ではないはずだ。もうずいぶん昔に習い覚えた校歌が、どうして自然に口をついて出てきたのだろうか。大人になってからは、ほとんど忘れていた歌である。「本当にふしぎだなあ」と、作者は首をかしげている。それだけの句だが、作者の気持ちの澄んだ爽やかさがよく伝わってくる。誰にでも起きることなのだろうが、気分の良いときに不意に出てくるメロディーや歌詞は、たしかに思いがけないものであることが多いようだ。このあたりの精神作用は、どこか心の深いところで必然性につながっているとも思うのだけれど、よくわからない。そう言えば、若い頃に「鼻歌論」をどこかに書いた記憶がある。何をどう書いたのか。この句を読んだときに思い出そうとしたが、手がかりがなくて思い出せなかったのは残念だ。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)




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