今週から「日常」が戻ってくる。子供たちは宿題に忙しくなる。(哲




2010ソスN8ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2382010

 校歌まだ歌えるふしぎ秋夕焼

                           渡邊禎子

れからの季節。大気が澄んでくるので、夕焼けもいっそう美しくなってくる。眺める気持ちも爽やかなので、作者は思わず歌をくちずさんでいたのだろう。いわゆる鼻歌に近い歌い方だ。しかし、気がつけばそれは何故か校歌だった。作者の年齢はわからないけれど、若い人ではないはずだ。もうずいぶん昔に習い覚えた校歌が、どうして自然に口をついて出てきたのだろうか。大人になってからは、ほとんど忘れていた歌である。「本当にふしぎだなあ」と、作者は首をかしげている。それだけの句だが、作者の気持ちの澄んだ爽やかさがよく伝わってくる。誰にでも起きることなのだろうが、気分の良いときに不意に出てくるメロディーや歌詞は、たしかに思いがけないものであることが多いようだ。このあたりの精神作用は、どこか心の深いところで必然性につながっているとも思うのだけれど、よくわからない。そう言えば、若い頃に「鼻歌論」をどこかに書いた記憶がある。何をどう書いたのか。この句を読んだときに思い出そうとしたが、手がかりがなくて思い出せなかったのは残念だ。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 2282010

 早口な介護士が来て秋暑し

                           芦田喜美子

るほど、こんな情景も句になるのだなと、感心してしまいました。介護士が来たのだからこの家には病人か老人がいるわけです。畳敷きの狭い部屋には、背中の持ち上がるベッドが置いてあります。秋とはいえ暑い日が続いている間は、部屋の中にはけだるい空気が漂い、家族の話す言葉も静かでゆったりしたものになっています。そんなところにいきなり、外のにおいを全身に身につけて、威勢良く部屋に上がりこんで若い介護士が来たのでしょう。次から次へてきぱきと手順を説明する声は早くて大きく、日本語なのに、その意味をとらえることができません。おそらく病人とは対極にあるようなこの元気のよさは、住んでいるものだけではなく、部屋全体にとっての驚きであるわけです。そういえば、老いた母を病院に付き添ったときに、お医者さんの前で、にわかに自分の年齢や健康が気恥ずかしくなる感覚を持つのは、なぜなのでしょうか。つね日ごろは、仕事や人事のことであれこれ悩んでいる身も、親のそばに立つと、単に健康で、単純な生き物に自分が感じられてくるのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 2182010

 白萩の一叢号泣の代り

                           恩田侑布子

元の『新日本大歳時記』(1999・講談社)の「萩」の項に、「日本人の自然観には、見る側の感情を仮託するものが、色濃く投影している」(高橋治)とある。そして、萩は多くの詩人たちに様々な感情を仮託されるものとして愛されてきた、とも。この作者の同じ句集に〈どこからか来てひとりづつ萩あかり〉という句があるが、揺れ咲いて散りこぼれる萩の風情を感じさせる一句と思う。それに比べて掲出句の、号泣、には驚かされ、大声を上げて泣くほどの悲しみがあったのか、と思ったが、だんだんそうではない気がしてきた。あふれるように光る一叢の白萩と対峙した作者は、一瞬にして白萩の存在感をつかみ取る。それは、感情の仮託、を越えて、まるで白萩とひとつになってしまったかのようだ。この号泣には、喜怒哀楽とは別のほとばしりが感じられる。原句は一叢(ひとむら)にルビ。『空塵秘抄』(2008)所収。(今井肖子)




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