甲子園決勝が終わったあとのグラウンドには秋の光りが……。(哲




2010ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2182010

 白萩の一叢号泣の代り

                           恩田侑布子

元の『新日本大歳時記』(1999・講談社)の「萩」の項に、「日本人の自然観には、見る側の感情を仮託するものが、色濃く投影している」(高橋治)とある。そして、萩は多くの詩人たちに様々な感情を仮託されるものとして愛されてきた、とも。この作者の同じ句集に〈どこからか来てひとりづつ萩あかり〉という句があるが、揺れ咲いて散りこぼれる萩の風情を感じさせる一句と思う。それに比べて掲出句の、号泣、には驚かされ、大声を上げて泣くほどの悲しみがあったのか、と思ったが、だんだんそうではない気がしてきた。あふれるように光る一叢の白萩と対峙した作者は、一瞬にして白萩の存在感をつかみ取る。それは、感情の仮託、を越えて、まるで白萩とひとつになってしまったかのようだ。この号泣には、喜怒哀楽とは別のほとばしりが感じられる。原句は一叢(ひとむら)にルビ。『空塵秘抄』(2008)所収。(今井肖子)


August 2082010

 朝顔を数えきれずに 立ち去りぬ

                           伊丹三樹彦

寿記念出版と帯に記された24番目の句集に所収の作品。作者は昭和12年に日野草城に師事し、31年に草城逝去のあと「青玄」の後継主宰になり、それ以降、一句中の随意の箇所に一マスの空きを入れる「分かち書き」を提唱実践して今日に至る。その普及のために全国行脚をしていた40年頃、鳥取県米子市を作者が訪れた折、当時米子にいた僕は歓迎句会に出席したのを覚えている。高校生だった僕は初めて「中央俳人」というのを目にしたのだった。爾来一貫して「分かち書き」を実践。現代の日常の中にも俳句のリリシズムが存することを示してきた功績は大きい。この句、「立ち去りぬ」が現実であって象徴性も持つ。どこか禅問答のような趣きも感じられるのである。『続続知見』(2010)所収。(今井 聖)


August 1982010

 あれは夢これはよくある猫じやらし

                           小林苑を

こじやらしは子供のときからおなじみの草。愛嬌のある名前がかわいらしい。「あれは」「これは」という対比で夢と現実との距離感を表現している。夢は昨晩見た夢とも今まで自分が胸に抱き続けてきた希望のようなものとも考えられるけど、あれは夢、という呟きに遠く消え去ったものへのあきらめが感じられる。そんな頼りない思いから足元にあるねこじゃらしにふっと目がとまったとき淡く消えてしまった夢のはかなさが、より強く感じられたのだろう。かすかに風にそよぐねこじゃらしを「これはよくある」とぞんざいに扱っているようで、普段の日常への親しみをこの呼びかけに滲ませている。道端に線路際に、どんなところにも「よくある」猫じゃらしはロマンチックじゃないかもしれないけど、いつ見ても「ある」安心感がある。これから涼しくなるにつれ揺れる尻尾は金色に染まり秋の深まりを感じさせてくれるだろう。『点る』(2010)所収。(三宅やよい)




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